僻地に医者を増やすには

昔から人の少ないところでしか働いたことがなかったから、 実は「人不足」というのはあんまり実感がなくて、 今も僻地の一般内科をやっているけれど、そんなに危機感はなかったりする。

悪いものでも評判は評判

最近のボクシング中継とか、映画「ゲド戦記」とか。

ネットの評判はもう最悪に近くて、八百長だとか、あんな映画は見るもんじゃないとか、 ネガティブコメントばっかり。

否定的な評判のわりには、企画としてはどちらも大成功。

亀田戦は視聴率は凄かったみたいだし、映画も売れている。ネットで叩かれれば叩かれるほど、 視聴率はうなぎのぼりで、映画館に行く人も増える。

同じアニメ映画でも、おなじ時期に公開された「時をかける少女」の方は、 ネットでは大絶賛。ゲドのほうはひどい評判だけれど、 笑いが止まらないぐらいに売れているのは、やっぱり ひどい評判のほう。

いいものは売れるのか?

映画「時かけ」。

一番近い映画館でも、うちから100km 以上離れたところでしか公開されていないから、 見に行くことはそもそも不可能。田舎暮らしが恨めしい。

完成度が高い。感動できる。もうみんな大絶賛。実際興行成績もいいらしい。

「ゲド」は駄作。ジブリ作品というブランドが後押ししてるから、あれだけ売れる。

ならば、こちらが「ジブリ作品」として公開されていたならば、今公開されている「ゲド」を 突き放すような売上げが期待できただろうか?

なんとなくなんだけれど、そうならないような気がする。

完成度の高さ、誰が見ても感激できると言う確実性というのは、 多様なコミュニティに属する大人数を相手にしたとき、本当に強みになるのだろうか?

ツッコミどころという武器

昔のミドル級の試合というのは、盛り上がらなかった。

「いい試合」という意味では、今よりもっと激しかったかもしれないけれど、 その「よさ」というのは分かってる人のものであって、一部の人の絶賛を浴びるだけだった。

コミュニティの壁を越えるには、「よさ」以外の何かは欠かせない。

K1 ミドル級は、良くも悪くも魔裟斗が一人で頑張った。

優勝してからも「悪役」に徹して、メディアに顔を出して、努力を売らずに顔を売った。

努力もしないのに大きな顔をしている悪役に、まじめに頑張っている選手が挑む

初期のK1 ミドルは、努力しないのに強い悪役、魔裟斗を誰が倒せるのか? という筋書きで盛り上がった。

たぶん、選手の中で一番苦労していたのは当の悪役で、主役と悪役、宣伝役から 盛り上げ役まで一人でこなして、その上「強い悪役」をやるためには 本当に強くなきゃいけないから、見えないところで練習だってしなくちゃならない。

コヒのコメントがもう少し面白かったら、武田幸三があと5歳若ければ、 たぶん魔裟斗の「仕事」はもっと楽だったはず。

単一のコミュニティ、たとえば格闘技が昔から好きな人のコミュニティを相手にするなら、 「いい試合」を続ければそれで十分。

ところが、コミュニティの壁を越えて、もっと多くの人を「感染させよう」と思ったとき、 特定の人にとっての「よさ」というのは足を引っ張る。

誰かにとっての「いい」ものというのは、 他のコミュニティに属する人にとってはツッコミどころがなさすぎて、 自分達のコミュニティでのおしゃべりの話題にすることが出来ないのだ。

ベクトル量とスカラー

  • スカラーとは方向を持たず大きさだけ持つ量のこと
  • ベクトルとは、大きさと方向との両方を持つ量のこと

ベクトルというのは方向を持つ量のこと。方向を決めるためには、 観測者の位置を決めなくてはならない。

スカラー量というのは単なる大きさだけれど、 ベクトルを定量するには「向き」の評価をしないといけないから、 それを評価する観測者がどこに立つかで全然違う。だから、 ベクトル量には、常に観測者の認識が内在している。

「よさ」というのはベクトル量。「いいもの」を最大限に「いい」と評価できるのは、 それを観察するコミュニティの中の人の特権だ。

コミュニティの外にいる人にとっては、どうあがこうとも、中の人より劣った評価しか出来ない。

だから広まらない。

悪意というのは、言語やコミュニティの壁を軽々と越えて感染する。 「悪い噂」や「ツッコミどころ」というのは、観測者の立ち位置を問わない量だ。

水に落ちた犬を叩くのは、万人の楽しみ。だからみんなで盛り上がれる。

集団の叡智と衆愚

どの科にいくのが「勝ち」なのか、学生諸氏の間での解答ははっきりしつつある。

産科や小児科に進む選択なんか、もうツッコミどころ満載。 負け組みとか、イラクに首切られに行くようなものとか、言われっぱなし。

「正しい」選択とされている医師像も、またステレオタイプ的。

都市圏の市中病院で研修して、さっさと専門医を取って速めにリタイア。

同じ条件に皆が殺到しなくてはならない時点ですでに間違いなのだが、 あんまりこれに突っ込む人がいない。

皆の意見が単純な解答に収束する状況というのは、何かが間違っていることが多い。

みんなの合意で「正しい」と思われる意見に集約されるのと、集合的にベストな 意思決定が、集団により下された状態とは全く異なる。

集団の叡智というのは、みんなの意見の平均値が、ときに極めて正しい意見となるという 現象だけれど、集団の生み出した「正しい答え」というのはあくまでも平均値であって、 一人一人が出した解答はみんなバラバラになる。

標準偏差の少ない「集団の解答」というのは、 集団の叡智が発現したのではなく、衆愚が生んだ妄想である可能性が高い。

医学生がそういう解答をだすようになってしまった理由というのは、 たぶん「みんな平等」という教育のせいなんじゃないかと思う。

均質な集団は「よい」ものを好む

集団を「いい集団」として成立させるために必要な条件は3つ。

  • 集団を構成する人たちが独立していること
  • 多様な個性を持った個人の集団であること
  • 中心となるリーダーを持たないこと

これら独立性、多様性、分散性という条件がそろって、はじめて集団は叡智を持つようになる。

受験勉強や、公平な教育内容、ローテーション研修といった医学生を取り巻く制度は、 すべて集団を均質化し、多様性を無くすように働く。

多様性を無くした集団の中では、一人一人の立ち位置が皆同じ。

均質な集団は、ベクトル的に「よい」ものしか評価しない。

「よい」ものとは欠点の無いもの、ツッコミどころの少ないものだから、 その「よさ」は、他のコミュニティには伝わりにくい。

新人医師になる人と、市民感情とのギャップはこうして拡大する。

コミュニティの中の人が志向する「よい」選択肢というのは、外の人から見るとリスクの少ない、 つまらない選択肢にみんなが殺到しているようにしか見えないのだ。

医師は叩かれ、市民は怒る。お互いどんどん不幸になる。

僻地に医者を増やすには

具体的にはこんなことをする。

  • 教育や実習は、たとえば埼玉県人会とか北海道軍団といったチーム対抗の型式で行う
  • チームを分ける基準には、年齢別や出身県別、趣味や性別といった様々なものを用い、得点は全てチームに入り、メンバーに公平に分配する
  • みんなで同じことをやるよりも、うまく分業をしたほうが得点効率がよくなるように、課題の種類を工夫する
  • 進級試験は総合点で。外科の失敗を小児科で挽回するといった行動を「あり」にする
  • 医師国家試験は今までどお行い、全科の最低限のクオリティを確保する
  • ローテーション研修期間は自由行動。僻地に飛び込もうが、都市部の有名病院に入ろうが自由。 その間の給料はどこかが保証する。2年の間は、何回転職しようが、病院を移ろうが、自由。 その代わり、その後の人生は自己責任。

要は、医学生という小さな集団の中に多様性を育てるルールを導入することで、 様々な価値観を作りだそうという提案。

今のルールのまんまで人数を増やすとか、成績順に進路を決めて、 下位グループを産科や小児科に回すといった 提案は逆効果だ。間違いなく現場の士気を下げてしまう。

大事なのは絶対数でなくて、少数であってもやる気のある人が増えてくれること。

そのためには、いまの「○○やったら負け組み」という、失敗したコミュニティ特有の 単一化圧力を、何とかして一度ゼロにしなくちゃならない。

みんなの評価軸がバラバラになって、その立ち位置あいまいなものになれば、 「欠点だらけ」という評価を受けた科の、その欠点こそが強みになる。

ツッコミどころの多いものには、「感染力が強い」という武器がある。

不人気科の魅力のなさは、様々な医学生に訴える「感染力の強さ」によって、わずかだけ補償される。

医学生が多様化しても、不人気科はやっぱり不人気科なんだろうけれど、 たぶん今よりは少しはましになると思う。

鍵になるのは、医学生の集団の中に、多様な価値観を作り出すこと、 絶対に成功しそうもないような 進路選択のアイデアであっても、それをためらわないように後押しして、 失敗してもいいんだというセーフティーネットを構築することだ。

起きたとしてもわずかな変化だろうし、あるいはこんな提案なんて、 何の役にも立たないかもしれない。

フェルミ研究所の創設者、物理学者のウィルソンは、 「粒子加速器が、国防上なんの役に立つのか?」という質問に、こう答えたのだそうだ。

そういう目的のためなら、この加速器には何の価値もありません。 そうではなく、我々がお互いを尊敬しあう心、文化への愛に関してだけ、それは意義があるのです。 そういう意味で(この機械で得た)新しい知識は、わが国を防衛するだけの価値のある国家として育てる以外に、国家防衛には何の効用もありません。

なんだかんだいわれても、やっぱりこの仕事は面白くて、その面白さを知ってもらう以前から、 「負け組み」あつかいされるのは、やっぱりあんまり面白くない(産科医療だけは、もう挽回不可能になってしまった…)。

多様な選択肢の中で、100人のうち一人でも騙されて、僻地の内科に来てくれるなら…。

一人ぐらいなら、きっと地域医療の面白さを伝えることも、できると思うんだけど。