エンジニアは戦争が好き

昔話3題。

厨房の頃、北海道の大学の工学部の人達とサバイバルゲームをする機会があった。

相手はもう強いなんてもんじゃなく、自分達は撃たれまくって穴だらけ。 腕前のほうでも勝負にならなかったけど、なによりも武器の性能が違いすぎ。

  • 「北海道の平和は、僕達が守ってるんだよ」
  • 自衛隊が頼れないから、ソビエト連邦が来たらみんなで戦うために鍛えているんだ」

冗談に聞こえなかった。

もっと前の話。

「これからはバイオの時代だ」と、どの大学でも生物系の学部を新設する機運が高まっていた頃、 父親の大学でもそんな話が出たらしい。

「本学でも、生物系の学科を新設するべきだと思う」と教授会で動議が出たとき、 反対意見が多数だったという。

  • 「生物学なんて、戦争の役に立たない」
  • 「本学の工学は、次の戦争で日本がアメリカに勝つための工学ではないのか?」

いろいろ揉めたあげく、「細菌兵器は、立派に戦争の役に立つ」と誰かが言い出し、 話がまとまったのだそうだ。

もっともっと前の話。

子供に「親父の仕事場」を見せるのが流行していた頃、連れて行ってもらったのが 大学隣接の共通実験室。

すごい機械がたくさん並んでいたけれど、「どうすごいのか」なんて、小学生に説明するのは無理。

そのときの、工場長みたいな人の説明が、やっぱり戦争がらみ。

  • 「この大学の設備があれば、自衛隊が使う兵器のほとんどは学内で内製できるんだよ」
  • 「ライフルやカノン砲ぐらい、すぐにだって作れるんだ」

当時はまだ「突っ込む」ということを知らなかったから、おじさんの言葉に素直に感激していた。

戦いの好きな人と勝つのが好きな人

エンジニアの人達は、戦いの話が大好きだ。

医療の現場でも、戦争のアナロジーはけっこう使うけれど、 「戦いかた」はずいぶん異なる。

エンジニアのアナロジーが武士道精神ならば、医者のアナロジーは虐殺の方法論だ。

戦うのが好きなのと、勝負に勝つのが好きなのとは意味あいが違う。

戦うのが好きな人は、たとえ勝てそうでもつまらない試合はしないし、 勝つのが好きな人は、面白そうでも負ける試合はしない。

日本人の戦いの美学である「武士道」。

本当に戦っていた中世武士の「武士道」と、明治以後の武士の精神として引用される「武士道」とでは、意味が違う。

昔の武士道というのは、戦いに勝つための方法であり、生き延びる知恵の集積みたいな ものだったらしい。裏切りとか、奇襲といった行為は当時は当たり前のことで、 悪いことでもなんでもなかった。

「高潔な精神を持った武士」という武士道のイメージは、明治時代に作られたもので、 ヨーロッパの騎士道を参考にして創作されたものらしい。

  • 戦場では卑怯なことをしてはいけない
  • 勝負は時の運、正々堂々と戦って敗れたとしたらそれはそれでしかなたがない
  • 主君を裏切ったり、敵から逃げるのは武士の恥

こういった「戦場のフェアプレー精神」みたいなものは、戦うこと自体が好きな人の発想だ。

「主君のために、日本のために喜んで死にましょう」 「負けても裏切らないで、潔くその場で死のうね」

こうした「武士道精神」は、 実際に戦わされる側、「勝つこと」が仕事の側には、迷惑極まりない。

戦場でのフェアプレーはむしろ悪徳

戦場のフェアプレー精神というのは、実際に戦いには参加しない人達の発想だ。

戦いを好む人達は、兵士にフェアに戦うことを要求する。 常に勝つことを要求される現場の下士官は、まず「ズル」をすることを考える。

奇襲をする。相手の一番弱いところから攻める。 絶対に負かせる相手から確実に潰す。きれいも汚いも関係ない。勝てればいい。

現場の医者が EBM 論者に対して持つ違和感というのは、 彼らの要求する「戦いかた」というものが、 病気に対してあまりにも「フェア」だからだ。

戦争の中にある人は、「戦うこと」それ自体のことは考えない。 現場が欲しいのは、勝つ手段、あるいは生き延びる術。

それは外から見ると「フェア」でないし、卑怯な戦いかただから、面白くない。

フェアな戦いかたなんか、現場は求めていない。それを求めるのは、戦争に関係ない人だけだ。

選択肢のない不幸

  • 「放送」と「通信」
  • 「暴力」と「法律」

情報とか、正義とか、生きていくのに必要な他の要素については、必ず何らかの代替案がある。

NHKが嫌いなら、テレビを捨ててマイクロソフトやgoole を応援すればいいし、 警察が嫌いなら、暴力団に私財を投じればいい。

残念ながら医療はそうはいかない。

病気になった人には、「西洋医学にかかる」以外の選択肢は与えられない。

病院を代えたところで、西洋医学の基本思想は変わらない。

東洋医学などの代替医療はたしかに存在するけれど、 とてもじゃないけど西洋医学を補完するだけの力はない。

武器をとって戦いに参加するには、何らかの選択をしなくてはならない。

ところが、病気になった人というのは、本来は戦いの当事者なのに、 自分が受ける医療については何の選択もできない。

病気になった人は、医療全体に対して「信託」を与えることしかできない。

戦いそのものには参加できるのは医療従事者だけだから、 あとはみんな外の人だ。 「中の人」の戦いかたと、「外の人」が見た戦いかたというのは、もう絶対に分かりあえない。

生き延びる術を求める小数の医療従事者と、それを卑怯な逃げと見る多数の「戦いの外の人」。 西洋医学が医療を独占してしまった昨今、 病気の当事者たる患者さんもまた、「戦いの外の人」になってしまった。

医療は結果が全てなのは確かなのだけれど、最近はちょっと厳しい。

事実上の独占状態であるこの業界は、医師に対して おびただしい特権をもたらしてきたけれど、最近はその弊害も目立ってきた。

大相撲。

武士道が生き延びるための方法論であった時代には、 横綱同士の頂上決定戦は縁起が悪いとされ、 行われなかったという。

勝つための戦いを行わざるを得なかった時代の武士達は、 対立の構図を崩す不幸、最強を決定する不幸というものを知っていたのではないかと思う。

「参加できる戦い」を作るもの

参加できる戦争を作る条件は2つ。

  • 対立する2つ以上の集団が存在すること
  • 参加者が、それぞれどの集団に所属するのかをはっきり意思表示すること

どの業界にも、こうした対立の構図というものはつきもので、誰がどの流派に属しているのかもまた 明示的に示される。

何かを得ようとする人は、どのグループに参加するのかを 選択して、自らも戦いに参加する。

みんなが戦いの一員となって考えるから、責任は分担されるし、みんな一緒になって考える。 みんな「中の人」だから、戦いの方法論についてもまた一緒。「2つの武士道」の衝突はおこらない。

西洋医学にも、こうした対立する集団というものが存在する。

たとえば麻酔。ごく大雑把に「関西流」の麻酔の方法論と、 「関東流」の麻酔の方法論というのがあって、麻酔の導入方法や、管理のしかたが微妙に異なる。

心カテや、外科手術といったものにも、こうした伝統的な流派の違いというのはけっこう残っていて、 同じ技術を用いる手技であっても、それを現場にどう応用していくのか、 その運営方針については各流派で微妙に違う。

医療の現場にも、まだまだこうした流派の違いというものが残っている一方、 それが公に語られることというのは、案外少ない。

病気の治療方針を説明する際、治療の選択肢を示す以外に、自分がどういった 思想の流れをくんでいる 医者で、自分のと異なる流派の医師はどこにいて…というお話を一緒にすると、 あるいは患者さんに「戦いに参加した」感覚が生まれるかもしれない。

独占業界ならではの特権を失うのは絶対にいやだけれど、 バーチャルな戦争の世界に遊び、その成果物を持って実社会を左右する技術者という人達の やりかたというのは、自分達の立ち位置よりもより前に進んでいるように見える。

戦争に参加して、なお自分達の戦争を笑い飛ばせる健全さを残して病気と向き合ってもらうには、 「その意思の所属する流派を明らかにすること」というのは、結構有効なのではないかと思う。