情報の視覚化と祭りの力学

人が道徳に服従するのは、道徳的であるからではない。 道徳への服従は、君主への服従と同じく、奴隷根性からでも、虚栄心からでも、狂信からでも ありうる。それ自体は、それは何ら道徳的なことではない。 道徳的理想の勝利は、他のあらゆる勝利と同じく「不道徳な手段」によって得られる。 嘘、暴力、誹謗中傷、不公正によって。

ニーチェも「にーちぇ」って書くと、ちょっと親しみやすい。なんとなく。

混沌から貴族主義的ネットワークへ

始まりは混沌。

誰もが自分のことで精いっぱい。全ての個体が競争を行う世界。

競争は勝者と敗者を生む。

1回でも勝った経験のある個体というのは、そうでない 個体に比べて、次の競争でも有利になる。

勝利に限界のない世界では、富めるものはますます富む。

混沌とした世界は徐々に分かりやすいものとなり、全体像を把握可能なものへと変貌していく。

「みんな」という視点の登場

時間の経過と共に、熱く混乱していた世界は冷えて固まる。

世界が混乱している頃は、みんなまわりが見えなかった。

世界のどこかには、うまいことやった連中がいるらしい。

分かってはいても、正体が見えなければ考えようがない。

誰もが知っている大企業でも、創業期はけっこう後ろ暗いことをしていた黒歴史が あるものだけれど、昔は誰も気にしなかった。見えなかったから。

誰もが自分の生活で精いっぱいだったちょっと前。バブル景気がおきて、世の中のあちこちから 成金めいた人たちがわいてきた。

知らなければ全くの他人だったバブル紳士も、「知って」しまうと妬ましい。

バブルがはじけ、成金だった人の一部は一緒にはじけた。テレビを見てはいい気味だと思った。 たぶん、みんなそう思っただろう。 そもそも報道されなければ、そんな感情がわくわけもなかったのに。

情報視覚化という仕事

政治やマスコミの仕事というのは、見えない世界の全体像を「見える」ように加工することだ。

全体把握のための、様々な世界プラン。 今まで「全体」なんか見えなかった人は、そのプランに 賛同する人同士で集まることで、「みんな」という共同体を作る。

たとえば、もっとも単純な世界プランというのは宗教だ。

信じるものは善。そうでないのは悪。 信じていればいつか救いがあって、日常生活のごたごたなどは、信仰に比べれば誤差レベル。

単純なものは細部が見えにくくなり、逆に詳しい世界プランは理解しにくい。

マスコミとか、政治家の人たちが提示する世界プランというものは、 古典的な宗教と、実世界の生情報との中間に分布している。

「みんな」の世界の階層構造

  • 世界本来の姿に忠実な可視化プランは分かりにくく、全体像の把握が困難
  • 分かりやすい可視化プランは世界全体の把握が容易になるけれど、作為の介入を避けられない

「みんな」の世界というのは、一種の階層構造をとる。

「いいことがおきれば神様のせいで、そうでないものは全部悪魔の仕業」という 人もいれば、その日の朝飲んだコーヒーの実在について、自分の記憶すら疑う人まで。 高層ビルのような、様々な階層の人が縦に重なる世界。

話をするには、同じ層に立たなければならない。 階層が違う人というのは、基本的には分かりあえない。

人をまとめるのが上手な人は、この階層構造の中を行き来する。

  • 疑り深い人の階層では議事録を残したり、契約書を交わしたりする
  • 人情重視の人の階層では、話の途中で酒を入れ、最後は握手

それぞれの層には、それぞれの言葉や、会話の方法がある。 それを間違えたら、契約はうまく行かない。

様々な層を、自由に行き来できる人は少ない。だから組織はゴタゴタする。

全ての階層を集める「祭り」という装置

それぞれの階層の「みんな」の元に出向いて合意を取り付けるのは大変な作業だ。

それを簡単にやってのける人は少ないから、 なんとか理由をつけて、それぞれの層にいる人達に集まってもらう。

高層マンションの住人を、近所の夏祭りに招待するのに似ている。

祭りというのは、結界を張った「異界」を作って、そこに様々な層の住人を勧請する儀式だ。

神様も、普通の人も、罪人も、同じ空間に集まって踊る。特別な時期に、特別な場所で行う行事 だから、このときばかりは「無礼講」になる。

みんなが食いつくような、新しい世界プラン。それが祭りの場だ。

某巨大掲示板でおきる「祭り」と、盆踊りなどのお祭りは、全く同じ意味。

  • 叩きがいのある敵役が現れたから。
  • 夏が終わって神様が帰ってしまうから。

誰でも乗れるプランがあれば、祭りは始まる。理由なんかどうだっていい。

作る力と探る力

誰もが共通にアクセスできる、世界の生データ。

祭りの祭司はそのデータを加工して、みんなに「祭りのテーマ」を見えるようにする。

世界の可視化と空気の操作というのは大体同じ意味だけれど、 それには「作る」と「探る」の2つのやりかたがある。

古典的な「空気を操る」方法というのは、「作る」やりかた。

社会的な上下関係とか。同じ大学出身だったとか。「あの人は○○派」みたいな噂とか。

風説の流布」という古典的な方法は、存在しない「関係」というものを無から作り出して、 実世界の地図にそれを重ねる。

中学校の幾何学の問題でも、補助線を追加すると問題が解ける。

正しい作りかたをした風説は、実世界の情報にないものを付け加えることで、話を見えやすくする。 「分かりやすさ」というのは強力な力になる。

もちろん、その「補助線」の引きかたには、術者の意志が入るのだけれど。

「探る」方法というのは、世代的にはより新しい方法。

実世界で流通している「事実」の断片をあれこれ組み合わせて、ひとつの意味を 浮き上がらせるやりかた。

一つ一つの「事実」は実際におきたことだから、これを時系列で分かりやすく並べられると、 反論が難しい。

それでも、それぞれの「事実」を取捨選択して、ひとつの分かりやすい ストーリーへと組みあげていく過程の中では、そこに誰かの意図が入ってくる。

  • 見えないものに「線」を引く、作る力
  • 生データの中から必要なものだけを視覚化する、探る力

想像力と、解析力。両方得意な人は最強。

適切なテーマが作れれば、賛成反対の如何を問わず、「みんな」はその場に集まってくる。

そして名付ける力

「モノ」の根本的な在りようを縛るのは「名」だ。

名づけられないものは、存在しないというのと同じ。

正しいやりかたで「場」ができて、正しいタイミングで「名前」が括られると、 その名前は強力な力を持って一人歩きする。

「正しい」というのは難しい。

科学的に正しいとか、道徳的に正しいといったものは、全然関係ない。

科学を信じる層。道徳を信じる層。科学も道徳も、しょせんはそれぞれの「層」を代表する 概念にしかすぎない。科学的に正しいことは、しばしば道徳的に正しくない。

「正しさ」とは、伝わる力だ。多くの層の住人が食いつく概念は、正しい。 賛成だろうが反対だろうが、それはどうでもいい。大事なのは数だ。立場じゃない。

たとえば「ゲーム脳」。

「科学」層の人達は、みんなこの「名」を叩いているし、「正しい教育」層の人達は、 この言葉を熱狂的に支持している。反対と賛成。立場は全く逆だけれど、 多くの人がこの話題に集まっている。これは正しいやりかたで作られた言葉だ。

  1. 「テレビゲームが子供の脳を駄目にする」というテーマを作る
  2. 「科学」の技法を用いて「科学」の住人を挑発する
  3. 科学的な言葉を用いて、「教育」層の住人の支持を集める
  4. そうしてできた場の力に、「ゲーム脳」という名を与える

祭りの舞台を作るプロセスとしては、この過程はまったく「正しい」。

たとえば、悪だくみで儲けた「ヒルズ族」。

あの巨大なビルが「六本木ヒルズ」などというハイカラな名前でなかったら、 事態は相当違っていた気がする。

法律的に正しいかどうかとか、道徳的にどうかとか、しょせんはその「層」だけの問題。

「祭り」になってしまった本当の原因は、あんなおしゃれな場所に、あんな大きなビルを建てて、 あまつさえ「六本木ヒルズ」なんていう「名」を与えてしまったから。

ビルの名前が単なる「六本木ビル」だっら。事態はここまで大きくなっただろうか?

祭りを回避するために

治すのは医者の仕事。叩くのはマスコミの仕事。

もともと「悪い医者」というプランがあって、多くの層の住人がそれに乗っかって。

出来上がった「場」の力はだんだんと大きくなってきたけれど、 幸いにもまだ「祭り」はまだ始まらない。

この祭りには、まだ2つの要素が欠けている。

  • 「悪い医者」プランに反対する層の参加
  • 正しい「名」がつけられること

「医者は悪くない」とか、「これ以上医者を叩くと…」という言葉は、祭りの場に参加する やりかたとしては全く「正しい」。正しいけれど、参加しちゃうと祭りが始まる。

医者は医者。それ以外の「名」を与えられていないから、「医者」としてふるまっていれば、 他の名前は寄り付けない。

戦うとか、何かをボイコットするといった行動は、「医者」という名の定義の 中には入っていない。

医者を括る「医者」というカバーが外れれば、それはもはや医者ではなく、 白衣を着て医師免許を持った、ただの「存在」にしか過ぎなくなる。

空白の「存在」は、名が無いから守れない。守りのなくなった存在には、誰か他の人に、 新しい名前が付けられてしまうかもしれない。

マスコミと言いう祭司が「正しい」とは思えないけれど、それでも祭りは「正しい」工程で 作られつつある。

日常の継続と不作為の力

起こりうる未来を予見して、「悪い医者」テーマに対抗するのもきっと 大事なのだろうけれど、たぶんもっと大事で、もっと多くの医師がやらなくてはいけないのは、 今までの業務を淡々とこなし続けることで。

日常の継続は、きっと何よりも大きな力だ。

日和見だけれど、ここはやっぱり外せない。