いい文章の書きかた

実家の言い伝え。

  • 「達意の文章」であること。わかりやすいこと、一読して何を言お うとしているか、相手にわかること。何度も読み返さねばわからず、読みように よって意味が違ってとれるなど論外。あまりに長い文章は、たとえば野坂昭 如のごときのテクニシャンでなければ、たいてい破綻をきたす。
  • 「名文を書こう」などという色気がチラとでも見える文章はイヤらしい。 そんなことより、いま書きたいと思うことを、わかりやすく、自分の使い慣れた言葉 で、しかもこれ以外にない、という適切な言葉を選んで表現する。そのため にはボキャブラリーは豊富でなければ。
  • 自分が表現しようとするものに適切な言葉をあてる。 クダクダと何語も連ねるのでなく、ピタリと言う。
  • 手垢のついた表現を使わない。たとえば「ピカピカの1年生」などというのは、 もう垢まみれの言葉。人の言い始めた表現を盗まない。
  • 書き手の態度。これは生き方と不可分のもの。己に正直、能力 をひけらかさない、謙譲で人の言うことにもよく耳を傾ける、そうした人柄というも のは、自然と書いたものににじみ出る。「文は人なり」というのは真理。
  • まちがってもアジテーターにはならないように

最近は、このルールをことごとく破っている。

昔から「いい文章」を書こうと気張っては難しい表現を多用してみたり、 読者受けをしようと色気を出しては誰かを中傷するような表現を多用してみたり。 そのつど怒られた。

いい文章なのかどうかはさておき、テキストをたくさん書くことで、その人の 「文体」みたいなものは自然にできてくる。分かりやすいのかはさておき、 長い文章を書くこと自体は、けっこう簡単にできるようになる。

昔は実家の文章作法を守ってた。

ところが、アイデア先行で文章を書くようになってからは、 原則から外れた文章ばかりになってしまった。

文章のタネになる発想というのは揮発性で、いつ思いつくか分からない。

「いい発想」と「発想の文章化」というのは全く違った工程で、 面白い発想であっても文章化するとつまらなくなってしまったり、 逆につまらなそうな発想であっても、文章化していく過程でアイデアが膨らんできたり、 いろいろ。

大事なのは、アイデアの質ではなくて、量だ。

とにかくアイデアをいっぱい出して、 とりあえず文章にしようと試みないと、それがいいものなのか、そうでないのかは 判断できないから。

「今の考えかたは面白かったから、後からまとめよう」と思ったことで、 後から思い出せたためしがない。

発想というのはどこか意識の奥の方、アカシックレコードみたいなところから浮かんでくる、 水泡のようなものだ。

泡が水面ではじける瞬間を記録できれば、それはアイデアになるけれど、「その瞬間」を 記録できなければ、そのアイデアは失われてしまう。

イデアを見つける工程について、漫画家の萩尾望都はそれを「海に潜るようなもの」と表現している。 ネーム(漫画の原作)を作る作業は暗く深い海―無意識の世界に深く潜っていくこと。 そこにどんどん深く潜れば潜るほど、いいものが見つかるという。

おそらくは、プロの表現者の人達の集中力というのはものすごくて、アイデアの水泡が意識の水面に 浮かぶその前、水中にある時点でそれを持って来てしまうのだろう。

普通の人にはできないことだし、作家の人たちが時々「向こう側」に行ったまま帰ってこないのは、 あるいはそうした行為を繰り返した後遺症みたいなものなのかもしれない。

自分はまだ常識人(一応)だから、アイデアは意識に浮かんだ瞬間、 水面で泡がはじける瞬間を書きとめるようにしている。

具体的には palm を常に持ち歩いていて、何かがフッと浮かんだとき、後回しにしないで その瞬間にメモをする。

ちょっと前、島田伸介の何かの番組で、伸介が磯野貴理子のハンドバッグの中身をぶちまけてしまい、 その中にあった「ネタ帳」をカメラに公開したことがあった。

分厚いノートの中は、会話の言い回しのネタでびっしりで、 「みんなこうやってるんだ…」と感心した記憶がある。

たとえば、palm のメモには、こんなことが書いてある。

  • コレステロールが服着たような(肥満の表現)
  • 水死体を裏返したら肋骨に沿ってシャコがびっしり(多分どこかの掲示板から拾ってきた)
  • 議論レイヤ(造語) 

自分の「アイデア」というものは、文章のテーマとか、 結論に相当するものではなくて、ほとんどがこういう「言い回し」に相当するものだ。

面白そうな言い回しとか、下らない表現といったものがまずアイデアとして浮かんで、 それを活かせるような文章のテーマを考えて、最後に当り障りのない結論を持ってくる。

逆のケースもたくさんあるけれど、「まず言い回しありき」で文章を書くことはけっこう多い。

議論レイヤという言葉が頭に思い浮かんだときには、何とかそれを使ってみたくて、 漫画「陰陽師」と山本七平を思い浮かべつつ、「体育会の議論」というテーマに たどりついた。

肋骨にそってシャコが…の話は、上司にすし屋に連れて行ってもらったときに シャコの話をしたらドン引きされた昔話から書きはじめて、それが空気の話になって、 ICUの政治の話になって、結局シャコがびっしりのくだりは文章の中から浮いてしまい、 削除したら件の話になったりしている。

「達意の文章」どころか、そもそも言いたいことなんかないところから文章を考えるから、 なかなか原則どおりには行かない。

他の人達は、どうしているんだろうか?