全体と部分の最適化

帳尻あわせの技術

職人芸というのは、つまるところ帳尻あわせの技術だと思う。

例えば法隆寺。もう1200年以上も経っている最古の木造建築物だけれど、 ハイテクなど使っていなくてもちゃんと建っている。大工の職人芸のなせる業だ。

法隆寺が名建築なのは論を待たないけれど、これが「精密な」建築物なのかというと、 そうでもない。1200年もの間もっているのだから、もちろんその作りはいいかげんなものでは ないけれど、細部はけっこう適当なものらしい。

例えば礎石。神社仏閣は、基本的には天然石を使う。天然のものだから、水平はきれいに出ない。 礎石をおいて、柱の底を石の表面と同じ形に削って、ただ乗せるだけ。固定もしない。 遊びだらけの構造。どの柱も、正確には垂直には立っていない。

ところが、この構造だからこそ、法隆寺は1000年以上もの間地震に耐えられたのだという。

基礎が均一でないから、地震が来ても一本一本の柱にかかる力はばらばら。基礎の遊びも大きい。 この「ばらつき」と「遊び」が地震の力を吸収し、法隆寺をして1200年もの間持たせたのだという。

宮大工の作る建築物では、設計図の寸法すらもアレンジされるそうだ。

亡くなった宮大工の棟梁、西岡常一氏のインタビューの中では、使用する木の材質に合わせて、 部品の大きさを微妙に変える話が出てくる。

建築家や設計士の人は、それを見てクレームを入れる。現場ではよく揉めたそうだ。

私ら檜を使って塔を作る時は、少なくとも300年後の姿を思い浮かべて作っていますのや。300年後には設計図どおりの姿になるやろうと思って、考えて隅木を入れてますのや。 木のいのち木の心 P.68

全ての部品の組み上げが終わったとき、あるいは300年ほど経って、塔の部材が完全に落ち着いたときに 完成形になるように、局所局所の組立てにはあえて遊びを残しておき、最後に「帳尻を合わせる」。 これが職人芸だ。

最高の部品の集積は最高の製品につながらない

自動車組み立ての現場でも、同じようなことがおきている。

日本の自動車。例えばトヨタのレクサスなどは、海外でも評判がいい。

ところが、(アメリカのメーカーの調査だから眉唾もんだが)個々の部品の精度や仕様を 見ていくと、日本車の部品の精度というのは必ずしも高くないのだそうだ。

部品の精度だけで見ると、最高なのはアメリカ製。次がドイツで、最後が日本。

ところが、実際に出来上がった製品の満足度で見ると、日本が最高で、アメリカ車は最後。

Baron氏は日本のエンジニアの工程を、大工がベースボードをくぎで固定して1枚の乾式壁に作り上げるプロセスに例えている。 最初から厳密な仕様に従って各ボード片を切るのではなく、大工は単にすべてのボード片を組み合わせていき、 最後の1枚を残った部分にぴったり合うように切るのだ。その結果、やはり質の高い組立品が出来るとBaron氏は言う。 「大工がやるべきことは、最後のボードの調整を行うことだけだ。そうすれば、その組立品は完璧に仕上がる」(同氏)。 (中略)「人々は、日本の自動車メーカーはあらゆる部品をかなり精密に作っていると信じているが、それはまったく違う。日本の自動車メーカーが各部品を厳格な仕様に合わせて作ろうとはしていないということが分かった。ただ組み立て品を仕様通りにしたいだけで、工程を細かく管理しているわけではない」(同氏)。 レクサスの信頼性が高い理由

アメリカ流のもの作りの考えかたというのは、「完全な部品を完全に組み立てていけば、完全な製品が出来上がる」というもの。

全てのパーツを遊びなく組んでいくから、パーツごとの誤差はだんだんと蓄積される。個々の部品の精度をどんなに上げても、それをゼロにすることは困難だから、出来上がった製品の最後のパーツを組む頃には、蓄積された誤差は無視できない大きさになってしまう。

日本の自動車作りは、パーツを組むときにある種の「遊び」を許容しているらしい。全体をなんとなく組んでおいて、最後に全てのねじを締めなおして、「帳尻を合わせる」。結果、品質とコストとを両立している。

部品の精度が高いこと自体には、何の問題もない。問題なのは、全体を見ないで「遊び」を許さない組み立てかただ。

正しい治療の集積は悪い予後につながる

  • 限られた技術で、1000年持つ建物を作る。
  • 限られたコストの中で、最高の品質の製品を作る。

どんな現場でも、常について回るのがこうしたトレードオフの問題で、これを乗り切る知恵として 「局所の最適化を捨て、全体の最適化を目指す」ストラテジー、職人芸というものが存在する。

西洋医学の治療は、時間とのトレードオフだ。

突っ込めるマンパワーは、大学ならば無尽蔵。大学の貯金箱は厚生省直結だから、 その気になればコストなんか数千万円単位で突っ込める。医療機器の品質というものもまた、 たぶん業界最高。人工呼吸器の部品などはすべてミルスペックだから、少なくとも兵器と同等の 精度は保証されている。

足かせになるのは「時間」の問題だ。

時間と共に、病気はどんどん悪くなる。EBM全盛の時代。どんな病態であっても、 世界のどこかには最高の解答というものが存在することになっている。

模範解答は、状況により異なる。患者さんの病名や重症度。年齢や性別。 ガリガリの寝たきりなのか、コレステロールが服着たような肥満体なのか。

解答を調べるのには、どうしても時間がかかる。ところが、時間と共に病気の状況はどんどん変わる。 「正しいこと」を調べる暇があったなら、とりあえずできる事から始めていかないと、間に合わない。

人間自体の問題もある。今の治療はチーム医療だ。個人がどんなに優れた治療を知っているからといって、 他の人がなれていない方法論をごり押したところで、上手くは行かない。

個人の持つメモリ空間の大きさは限られる。新しく突っ込まれた、「体になじんでいない」方法論は 処理の遅延を生じさせ、チームメンバー間の通信のコストを増大させてしまう。

「正しい」方法論は、しばしばチーム内の不要な処理を増大させてしまう。 メリットをもたらしてくれるはずの方法は新たなボトルネックを生み出し、 患者さんへ投入する貴重な人的リソースを奪ってしまう。

急変時に活躍するのは、いいかげんな治療だ。

ショックの患者さんを見たら、とりあえず何でもいいからそのへんの輸液を適当にボタ落ちにして、 手の届く範囲にある昇圧剤を適当に打つ。血ガスはとらない。酸素は常に全開。酸素が多すぎて 死ぬ人はいない。酸素過剰で呼吸が止まったら、挿管して人工呼吸すればいい。

本当の鉄火場でやる治療は、こんな感じ。 最初は本当に適当だ。

とりあえず手持ちの知識と技術とで突っ込んで、まずは時間を作る。時間を作ってから状況を把握して、 その場の状況で投入できるリソースを計算して、その中でベストと思うことをやる。翌朝人が集まったら、 前の夜の帳尻あわせをお願いして、その間に「答えあわせ」をやって、だんだんと「正解」に近い 治療に近づけていく。

何がおきているのか全く分からないときは、自己治癒する生体の機能に全てをゆだねて、 医者側は「待ち」に徹するという方法もある。

「がん休眠療法」などは、その自己治癒機能にすらも休眠してもらって、ひたすらに年単位の時間稼ぎを狙う。

どちらも、まだ「正しい」とは証明されていない、それこそ何年も先にならないと解答が出ない治療方針だ。

部分部分の最適化は、必ずしも全体の最適化を意味しない。

ICUで問題になっているのが、熱心な家族の存在。

24時間3交代で、いつもいる。熱心に見守る。こちらの一挙一動を、ずっと見ていて、 何かあったら質問する。

悪いことではないし、決して悪い人達ではない。

熱心なご家族のいる患者さんのベッドには、スタッフは容易には近づけない。

もちろん、「正しい」治療は常に怠らない。定時の採血、体位交換。体の清拭。モニターによる監視。 でもそれだけだ。

ICUみたいにスタッフが潤沢なところでは、それこそ15分おきぐらいにチョコチョコ指示が変わる。 婦長大怒り。スタッフ大顰蹙。でも変える。

それで本当に何か変わるのか、正直分からない。要は、階段の細かさの問題。5mの高さに登るのに、 1mの階段5段で行くのか、10cmの階段50段作るのか。目標も、ルートもほとんど同じ。フライングして、 一気に2mの跳躍を狙うこともあるけれど。

それでも、わずかでも違うと信じるからこそ、細かく変える。嫌がらせじゃありませんってば。本当に。

1%か2%か――それはわずかなコトかもしれない だがそれをわずかと笑える者はチューニングを語る資格はナイ ドライサンプは口で言うほど簡単じゃナイ 目をそらすいいわけはいくらでもできる すべて小さな積み重ねだ クルマは応えてくれる 造り手でも乗り手でも 壁を乗り越える気持ちに必ず応える――

情報の公開がブームだ。部品一つ一つをちゃんと組んでいるか。それぞれの時間帯の治療が、 ちゃんとなされているのかどうか。

ところが、こうした考えかたは、「正しいことの積み重ねは正しい結果に結びつく」という 思想に、どうしても縛られる。専門家が必要だから、専門家に仕事を頼む。素人と専門家の違いと いうのは、「結果」を見て仕事ができるかどうか。部分を正しく組むだけなら、素人にだってできる。 職人はいらない。

デザインは最適化のジレンマを超えられるか?

B.フラーが好きだ。

バックミンスター・フラーの思想が好きな人というと、 変な宗教団体の信者とか、イルカとか怪しげな宇宙人とチャネリングしつづけたあげくに 向こう側に行ってしまったニューエイジ崩れと相場が決まっていて、 自分もまたその類のフラー信者なのだが、 フラーが提案していたものが「デザインサイエンス」という概念だ。

新しい生き方、新しい概念というものはすべて「総合的な性向」を もっていて、総合的な思考、システム的な思考を行っていて、 さらにそうしたシステムの根本原理を理解している人がデザインしたもの というのは、一瞬にして過去のデザインを陳腐化する…といった考え。間違ってるかも。

「建築家は核戦争の脅威を解消することができる。それは核シェルター計画ではなく、新しいデザイン科学の力のことである。それによって、世界の資源問題を解決し、繰り返される世界戦争と核兵器による終末の危機を免れることができるのだ。あなた方建築家は、人類に対して、歴史上前例のないほど重要で決定的な貢献をおこなうことになる。……ハルマゲドンを避けるために政治家が遅鈍で放任主義の政策しかとっていないのに対して、私たちは速やかな方策をとることができる。それが建築のイニシアティブモなのだ。」 フラーの講演録

建築の分野では、フラーはトラス構造とか、ドーム型の建築物といった新しいものを 発明していて、それはたしかに世界中で使われてはいるけれど、まだまだ 過去の全ての建造物を陳腐化して、世の中の建築家をハローワーク通いさせるには至っていない。 残念ながら。フラーが間違ってるわけないから、世の中が追いついていないのか。

フラーの残した、「最適化されたデザイン」というのは分かりやすい。

ジオシデックドームしかり、トラス構造しかり。全体の構造は、フラクタクルのように部分の構造を 再生していて、「ちゃんと造った3角形からなる構造は強い」という基本部分を理解することで、 同時に全体の構造をも理解できる。

この構造物には「職人芸」的な要素は少なく、そもそも建造物の安定性が重力に依存しないから、 どこで組んでも、どこから組んでも正確に同じものが再現できる(らしい)。

今まで職人芸が活躍してきた分野というのも、新たなデザインという概念が入ってくると、 あるいは部分最適化と全体最適化の両立というものが可能なのかもしれない。

生体の組織というのも、全体が部分を模した、フラクタクルの構造物だ。

神経の異常な興奮という現象。これが、頭でおきればてんかん、心臓でおきればVT、横隔膜で おきればしゃっくりで、足でおきればこむら返りだ。使う治療薬も、その作用機序は大体同じ。

例外はいくらだってあるし、まだまだ分からないことはありすぎるけれど、病気というものもまた、 いくつかの基本的な原因と、その原因が作用する場所とのマトリックスで説明することが できる気がする。

適切なデザインがなされれば、病気の理解、治療の理解は もう少し簡単になるかもしれない。

直したいから「間違った」治療を行い、 ちゃんと診察したいから熱心な家族に「出てって下さい」と言う矛盾。

何とかならないだろうか。

とりあえずはドームハウス、いつか作るんだ。