マッチメイカーとしての国の責任

プロレスには仕掛け――アングルがある。

これは決して八百長などではなく、リングのファンタジスタであるプロレスラーの 持ち味を最大限に演出するためには欠かせない物語だ。

マッチメイカーは、プロレスの世界観とか、試合前の選手同士の怨恨や対立、 それぞれの選手の背負った肩書きや試合にかける物語といった、テーマとなる筋書きを担当する。

試合展開はあらかじめ決められている。もしかしたら勝敗も。

筋書きのある試合は楽しい

筋書きの決まった試合はつまらないだろうか?そんなことはない。

2005年7月18日の小橋vs健介の試合などは、たぶん昨年で一番の名勝負だった (もっとも「ノアだけはガチ」はファンの間では定説だが…)し、最初から「アングルあり」を 謳っているWWEの盛り上がりというのは、まさにシナリオの面白さの勝利だ。

つまらない仕込みの入った試合はつまらない。アングルなんかないほうがまし。 でも、面白いシナリオ、観客の予想を裏切るような展開を見せてくれるアングルならば、 「八百長か、真実か」などと疑う前に、目の前の試合を楽しんだほうがずっと楽しい。

マッチメイカーの作ったアングルに対応して選手が作るのが、ギミックだ。

  • 悪役。善玉。燃える闘魂。革命戦士。
  • 「あの選手は○○の腕を本気で折った」といった神話。
  • 元オリンピック選手、大学時代からのライバルといった、肩書きや過去。

優れたアングルは選手のギミックを際立たせ、ただでさえ盛り上がる試合を さらに盛り上げる。もちろん「プロ」レスリングはあくまでも仕事だけれど、 戦いが盛り上がったとき、選手は本当に限界を超えた戦いを見せてくれる。

鍛え上げた肉体を使い、観客を魅了する肉体芸術――それがプロレスだ。

マッチメイカーとしての国家の役割

僻地から人がいなくなっている。

最近、また新潟の某病院が崩壊したけれど、ここなどは300小規模の総合病院、 昔自分が研修した病院と同じぐらいの大きさだ。

僻地といっても、その言葉の意味は変わってきている。3年ぐらい前に病院が潰れていたのは、 人などほとんど住んでいないような、本当の僻地。今崩壊しているのは、一昔前なら 「地方都市」といわれた規模の地域の中核病院だ。

大学医局の力が弱まったこと。公立病院の長年の赤字体質。病院の「客層」の変化。 病院からスタッフがいなくなった理由はいくつもあるけれど、 地域医療を崩壊させた国の責任は重い。

診療報酬が…とか、医師の訴訟問題が…とか、そういうことは正直あまり興味がない。

お金はあったほうがいいに決まっているけれど、行政の問題というのは、 「現場の空気」にはあんまり響いてこない。

問題なのは、国がまともな「アングル」を作らなくなったことだ。

日本医師会全盛の時代。自民党=医師会という時代はたしかにあって、 世間から見れば厚生省は医師会の言いなり。

世間の古い病院というのは悪どく金儲け。「国は悪」「伝統的な病院は悪」という 構図は、強力に出来上がっていた。

筋の通ったアングルが確立していれば、選手は様々なギミックを身に付けて、 自分を売り出すことができる。

伝統的な「悪役」として「正しい」医療を続けた公立病院。 「革命戦士」として誰も行かない僻地に病院を作った 佐久総合病院や、共立病院系の病院グループ。 現在も地域医療の一戦で活躍している病院は、この頃生まれた。

「救急車のたらいまわし」という言葉が生まれた、約20年前。

救急車を取らない大手公立病院という「悪役」があって、厚生省はそれに対して何ら策を打たない 「無能な役人」というギミックをまとい、自らのシナリオの中に参加した。

マスコミは悪役を叩き、世間は救急病院の出現を歓迎し、千里の救急センターや、日本医大の 救急センターがクローズアップされ、人気を博した。この頃はまだガキだったけれど、 テレビで報道される救急外来の医師というのが、ほんとうに「正義の味方」に見えたものだ。

アングルを変えだした厚生省

おかしくなったのは、まだ最近のことだと思う。

「市民の声」が強くなった。それを突っぱね、世間の顰蹙を一手に集めて、国民を嘲っていたのが 厚生官僚の「ギミック」だったのだが、最近はやけに世間に迎合しているように見える。

  • 「まともな臨床医」を育てると称するローテーション研修
  • 悪の枢軸」大学医局の解体
  • 患者様という言葉の導入や、病院の機能評価

こういったものは、「従来の研修は悪。大学は悪。公立病院は横柄」という、いままであったアングルの 中で、民間の病院グループや市民団体が「革命派」というギミックの元にやっていたものだ。

プロレス世界では、あるギミックを掲げたレスラーが人気を博した場合、 その選手の登場機会を増やしたり、メインイベンターとして抜擢することはあっても、 もともとの対立の構図自体を書き変えるような真似はめったにしない。

団体を離れようが、フロント批判をしようが、長州力は何歳になっても革命戦士のままだし、 だからみんな安心してプロレスを楽しめる。

昨日まで革命戦士だった選手が、今日からは体制派の中心とされてしまったり。 横柄な悪役として活躍していた選手が、ある日を境に急にファンに笑顔を振りまくようになったり。 何といっても、悪の黒幕であったはずのシナリオライターが、市民の声に迎合して シナリオをコロコロ書き換えるようになったりしたら、選手も白けてしまう。

せっかく築き上げた自分のキャラクター、自分のギミックというものは、プロレス世界の「アングル」が そう簡単には変わらないという前提でないと、機能しない。

よくできたアングルは選手の個性を際立たせるけれど、駄目なアングルは選手を潰してしまう。

大晦日のPRIDEでの小川-吉田戦。あの2人の選手が普段から仲がよく、試合前もにこやかに 握手を交わしたりしていたら、大学の元先輩後輩とか、オリンピックでの過去の因縁とか、 そうした話題作りがなされていなかったら、あの試合はあそこまで面白かっただろうか?

厚生省が、あるいは自民党が「田舎者は死んで下さい」とでもテレビで断言してくれるならば、 それも脂ぎった役人がお姉ちゃんなど侍らせながら、しゃぶしゃぶ屋でインタビューでも 受けてくれたなら、共立病院にはもっと多くの研修医が集まって、 卒業生は勇躍僻地に乗りこんで行くだろう。

産科医のいなくなった町。「子供が産めません」と涙ながらに訴える母親を見て、 「子供がほしいなら、ヒルズに住めばいいのに」などと、片山さつき衆議院議員あたりが コメントしたりすれば、下手な産科優遇政策なんかより、よほど人が集まると思う。

いいアングルは地域医療を救うか

いいアングルは、演じる人に役割を与える。

シナリオライターというのは、基本的には「悪役」の立場を崩せないはずだ。

大昔、NHKのドラマ「源義経」で人気俳優が殺される回になったとき、当時のプロデューサーだった 吉田直哉氏のもとには、ファンからの助命嘆願が殺到したのだそうだ。

それでも、当然シナリオは崩せない。その俳優は筋書き通りに殺されてしまい、悪役となった プロデューサーのもとにはカミソリ入りの手紙が何通も配達されたらしい。

悪のシナリオライター、それに復讐する「善良な」ファンという構図。

悪役を演じきれなくなった厚生省は、いま「市民のための」病院づくりのため、 様々な提案を試みている。

小児科や産科の診療報酬の微増。僻地での研修の義務化。医師の処罰の厳罰化。

次から次へと提案されては潰される「シナリオ」は迷走し、 現場はどんなギミックを持って仕事をすればいいのか迷う。

迷ったときには待つしかないから、結果として医療の現場にも「待ち組み」がどんどん増える。

とりあえずは無難な職場へ。何がやりたいことなのか、国の描くアングルが見えないから、 みんなより流動性の高い職種、時間がとれて、いつでも後戻りの効く職場を選択せざるを得ない。

僻地に行きたい人、小児科や産科をやりたい人というのは本当はもっとずっと多いはずだ。 医師を取り巻く情勢が、たとえ今と大きく変わらなくても。

一番恐ろしいのは、自分達のやっていることが、厚生省から誉められること。 せっかく見つけたニッチをコモディティー化されてしまうことだ。

奴等がだらしないから、自分たちが趣味できつい職場で仕事をする。これがかっこいい。

現場も知らない、背広着た年寄り達から、「○○先生のやっている地域医療活動はすばらしい。 大学の先生も、この人のボランティア性精神を見習ってほしい」などと朝日新聞あたりに コメントを出された日には、もう人生終わり。

いままでかっこいいと思っていた自分の立場は、陳腐な役人の口先一つで 潰される。魅力的だったニッチ市場は「当たり前」のものとなってしまい、 そこに止まって仕事をすることは、かっこよくも何ともないものになってしまう。

いまいましげに悪態つかれて、お金だけ置いて立ち去ってくれるなら、ありがたいと涙も流す。 口だけ出して、「こいつの手柄は俺のもの」とばかりに誉めそやして、 後はなんにもしないから、地域医療の現場からは医者が逃げる。

今僻地にいったりすると、これをやられそうなのが一番怖い。

厚生省は、ビンス・マクホマンとか、ミスター高橋といった、「アングル」作成のプロを スタッフに招くべきだ。

いいかげん限界に近いところまで来ているけれど、 いい「アングル」さえ作れれば、まだまだ何とかなると思う。