共有地の悲劇

ある村の中心に、広い共有地があった。村人はこの知の主に羊や牛を放牧するために利用し、その家畜の毛を刈り、乳を絞って生計を立てていた。 共有地には管理人はいないので、誰もが自由に利用でき、放牧する羊や牛を増やしたことによって得られる利益はすべてその飼い主のものになった。 共有地の草はタダなので、羊を増やせば利益が増える。 共有地の草は全て食い尽くされ、家畜は一頭も育たなくなり、村人の生活は損なわれた。村人がせめて分別をもって行動していれば、こうはならなかった。

個人のモラルはみんなを救うか?

環境問題なんて下らない。

世界のみんな」のために、自分が何かを我慢したところで、 その「みんな」とやらから何かの報酬をもらえるわけじゃない。ましてや、自分の「我慢」に 命がかかっていたりしたら、誰も我慢などするわけがない。

命は大事。たとえ世界が滅ぼうが、今大事なのは自分の命。共有地が滅ぼうが、 「今羊に草を食べさせなかったら、家が滅ぶ」という状況で、羊を飢えさせる選択など できない。

抗生物質の耐性という共有地

病院では抗生物質を使う。

細菌の感染が無くても、抗生物質は使われる。何でもいいから患者さんが発熱したとき。 何か大きな人工物を体に入れているとき。患者さんが何らかの汚染に暴露したとき。

細菌はどんどん増える。「感染」が成立してしまっては、治療は困難。死ぬかもしれない。

医者だって客商売だから、入院している患者さんが発熱したら、主治医はうろたえる。 たぶん細菌感染は関係ないだろうと思っても、「抗生物質を使いたい」という欲求は抑えがたい。

病院というのは不思議なところで、作為による過失は問われないものの、 不作為による過失は人生を棒に振るまでブッ叩かれる

  • 発熱した患者さんに対して、抗生物質によるアレルギーで なにかトラブルがあっても、交渉次第で何とかなる
  • 抗生物質を使わないことで 何かトラブルになったら、人生を失う

内科医というのは、前の共有地の例でいくと「小作農民」のような立場。

なんとしてでも羊を食べさせないと、その先に飢え死にが待っている。とにかく今を乗り切る ことしか考えられない、因果な商売。

病院内には、もう少し高級な方々もいる。その代表格が、感染症専門医の先生とか、疫学者。

感染症医というのは、もうすこし大局的な立場から物を見る。彼らは羊が無くても生活できる から、貧乏な小作人が羊を増やしたらどうなるか、未来が見える。

「あなた達は、何をバカなことをしているのですか?」

感染症専門医は、内科の狂った抗生物質の使いかたを見て眉をひそめる。

抗生物質の濫用は、病院内の耐性菌を増やす。誰かが抗生物質を使うと、耐性菌が出現する 可能性がそれだけ増える。そのリスクはわずかなものだが、確実に増える。

内科と細菌学者とは、同じ医者でも立場が異なる。

  • 内科医は、目の前のお客さんの利益を最大化させることを考える。耐性菌出現のリスクは「誤差範囲」だから、それを無視する
  • 細菌学者は、病院全体、世界全体の利益を最大化させることを考える。患者の死亡割合が「誤差範囲」なら、抗生物質を使わずに、耐性菌を減らすことを考える

あんたら感染症屋は、人間よりバイ菌のほうが可愛いんだろ!」。 内科と細菌学者とは、こうしていつも喧嘩する。

恋人に行う医療

植え込み型除細動器(ICD)という機械がある。

心筋梗塞後、あるいは重症心不全の患者さんで、これを植え込んでおくと致命的な不整脈が出ても、 助かる可能性がある。

ICDの生命予後改善効果は、大きなトライアルで証明されている。 患者さんの選択さえ間違えなければ、ICDを植え込んでおけば、長生きできる可能性は高まる。

ICDを植え込んだ人の多くは、機械が作動せずに一生を終える。機械が作動するときというのは、 致命的な不整脈が発生したとき。不整脈の発生が無かった人たちは、結果として ICDを植え込む必要が無かったとも言える。

ICDは高価。タバコの箱ぐらいの大きさなのに、国産の高級車1台が買えるぐらいする。

  • もしかしたら必要ないかもしれない可能性
  • 高コスト

この2つの条件がそろえば、「費用対効果」の論文が書ける。バカな現場の医者が、 高価な薬や機械を使いまくると、世界経済という共有地が破滅する。正義を愛好する 疫学者としては、なんとしてでも現場の暴走を止めなくてはならない。

疫学者とか、EBMが好きな人というのは、 臨床の現場で働いている医者が憎くて憎くてしょうがない人たち。

あいつら、目先の利益に騙されて、また好き勝手やってやがる」。一般臨床で「効果がある」 として信じられていた手技や薬が、「統計的に」論証してみていかに効果が無いものであったか、 枚挙にいとまがない。

一般臨床家の迷信を解き、正しい医療を広めるのは、疫学者の使命。 内科のバカさ加減を統計であげつらうのは、疫学者にとって最高の瞬間。

ICDは、費用対効果を論じると、「効果が無い」と判定されることが多い。それでも臨床医は、 不整脈で患者を失いたくないから、この機械を植え込む。

数年前のペースメーカー学会で、海外のICDの権威が講演に来たとき、会場から「費用対効果が 証明されていないものを、あなたはどうやって広めようとしているのですか?」という質問が出たそうだ。

演者の先生はこれに答えて一言。

「あなたの恋人がICDの適応になったら、あなたならどうしますか?」

誰も反論出来なかったそうだ。

命の値段は疫学者が決める

医療の分野で、費用対効果を論じるぐらいバカらしいことはない。 世界経済という共有地は、 疫学者が勝手に妄想にしかすぎない。

致命的な副作用について叩くならともかく、「高価すぎて」意味がないなら、 技術者はどうやったらコストダウンができるかを考える。少なくとも、 意味が無いなどという「意味が無い」答えを出したりしない。

費用対効果の論文は、人の命を査定する。

○○人の人がこの薬を服用すると、1年間で致命的な疾患の発生率が3人減少する。一人の救命による利益が200万円とすると、1年あたり600万円の得。一方、○○人の人が1年間この薬を服用するためのコストは800万円。よって、この薬は「意味が無い」。

人の命はいくらなのか。

神様でもなければ答えは出せないが、なぜか疫学者はその答えを知っている。

自分たちがICDが必要な病態になったときには、疫学者たちはどうするのだろう?

たぶん、彼らの命は下々の人間よりもはるかに高価に査定されているのだろう。

上手なコンサルタントは質問者をいい気分にする

高価な機械や薬の問題はともかく、抗生物質の濫用による耐性菌の増殖という問題は、 確実に医者の首を絞めている。

抗生物質は効かなくなっている。大きな病院であればあるほど、その病院の細菌はひどい耐性を 持つようになっている。

ちゃんとした感染症の専門家がいるような病院でも、実体は同様だ。そういう病院はたいてい 地域の基幹病院だから、いろいろな病院から患者さんが搬送される。耐性菌の出現パターン は、病院ごとに微妙に違う。大きな病院には、様々な耐性菌がDNAを運んでくる。その施設の 抗生物質の管理がどんなに徹底していても、一度出現した耐性を消すのは、かなり難しい。

抗生物質の使用を制限すれば、耐性菌はわずかずつ減少する。その「わずかさ」に 内科は焦れ、自分の患者さんにだけは「いい目」を見てもらおうと、抗生物質を使う。

感染症医にとって、その「わずか」な前進こそが勝利の証なのに、内科は平気で踏みにじる。 病院内には医者どうしの喧嘩の声が絶えることは無い。

感染症医の中には例外もいる。どうやってもお互い喧嘩にしかならないはずなのに、その人に 感染症のことを相談すると、なぜか丸く収まる。

内科医は、感染症医が推薦する治療を「自分で思いつく」。「俺ってこんなに頭良かったっけ?」。 なんだか気分が良くなり、また問題があったらコンサルトしようと思いながら、術中にはめられた 内科医は、「模範的な」抗生物質治療に精を出すようになる。

疫学的に正しいことと、現場での正しいやり方とは、しばしば異なる。

コンサルタントがいくら疫学的に正しいことを言っても、それは現場には通じない。そもそも立場が違うから、言葉が通じない。上手なコンサルタントは、「現場に気がついてもらう」。

現場から見て「いいコンサルタント」とは、現場の医者の気分を良くしてくれる人だ。わざわざ現場を離れて、専門家の下に出向いて、そこで因縁をつけられて怒られれば、二度とそんなところには行きたくなくなる。

共有地の悲劇を回避するには

環境問題やリサイクル、漁業の乱獲をどうやったら防げるのか。ゲーム理論の本などで引用される共有地のジレンマの実例というのは、どれも世界規模の大きな問題。

スケールの大きすぎる問題の解決策は、結局のところ警察権力的なものの導入しかないらしい。

共有地を維持するには、仲間同士で共有地を荒らさないような取り決めをするしかない。「仲間」の数があまりにも多くて、お互いのコミュニケーションのコストが大きすぎれば、裏切ったところで良心の痛みなど感じない。

裏切った人に罰則規定が無ければ、協定を守る動機も無い。誰もが利益を得たいから、共有地には一本の草も残らなくなる。これを回避するには、罰則規定の導入や、それを維持するための「警察」的な機関を作るしかないという。

この共有地のジレンマというものは、集落が十分に小さくて、誰もが知り合いという規模であればおこらない。小さな集落、小さな共有地であれば、誰かが裏切って草を貪ったら、「草が減った」という情報が皆に伝わる。誰かの裏切りは、すぐに残りの人たちへの不利益となって跳ね返る。

協定違反=>不利益のフィードバックが早くて、また違反をした人が誰なのかが一目瞭然という環境ならば、共有地の使用の協定は守られ、際限も無く草が食べられるという現象は生じない。

「友達の多い感染症医」というやりかた

ある程度スケールの小さな共有地問題を解決するには、結局2つの方法がある。

  • 警察的な権力を導入して、裏切った人を罰する
  • 「誰もが仲間」という状況を作り出して、共有地の問題が生じない程度にコミュニケーションを密にする

抗生物質の共有地問題を、「警察権力」で解決するのは簡単。

  • 抗生物質の使用を許可制にする
  • チエナムなどの広域抗生物質の価格を、今の10倍ぐらいにする
  • 委員会を作って、その月に「間違った」抗生物質の使いかたをした医師を告発する

まるで革命前のソビエト連邦のような方法だ。権力で抑えれば、上から抑えている人たちは気分がいいかもしれない。現場で働いている連中には不満が鬱積する。いつか革命が起きるだろう。

幸い、病院という組織のスケールは、共有地の問題が発生する程度には大きいが、 個人の力で何とかできる程度には小さい。

感染症医が「病院中の医者と友達」になれるなら、共有地のジレンマは発生しにくくなる。

上からの正論で物を言われてもむかつくが、「友達の顔を曇らせる」のは、友人としてどうかと思う。 正しい知識や考えかたを共有できて、自分がその友達のおかげで頭がよくなったと、思えたら、 なおのことそいつの意見を無視できなくなるだろう。

「正しい」抗生物質の使いかたを病院内に広めようと思ったら、理論武装を整える前に、 冗談を言ってみたり、飲み会に付き合う回数を増やすようなやりかたも「あり」かもしれない。

いつも世界の誰かを敵に回すようなことばかり書いていては説得力が無いが、活発なコミュニケーションの結果生まれた「みんな友達」の状態は、きっと世界のいろいろな問題を解決してくれる。

昔も今も、そう信じている。