競争の中で自分を見失わないために

「医者なんて一生勉強だよ」とよく言われるのだが、別に医業に限ったことではなく、持てる知識や技術を駆使して仕事にあたる以上、どんな職でも一生勉強に違いない。

研修制度が義務化され、すでに一年以上がたつ。制度の受け止め方やこなし方といったスタイルは十人十色でまちまちだ。さっきのビルの話に当てはめれば2階建ての民家を建てるのが精一杯だったり、50階くらいまで建てたのに途中で投げ出してしまったり、途中で倒壊してしまったり……。そんな中、いきなり100階建てのビルを建てようとする研修医がいたりすることもある。

ある内科医の独り言 100階建てのビルを建てるには

臨床医になるというのは、自転車の乗りかたを覚えるのによく似ている。

世の中にはどんな自転車があるとか、どんなかっこいい乗りかたがあるなどという情報は、「自転車に乗る」という当面の目標に対しては、なんの役にも立たない。

外国製のすばらしい自転車、プロのサイクリストの本などをいくら読んでも、それを学ぶことで自転車に乗れるようになるわけじゃない。

それどころか、そんな情報は、自転車を乗る上では有害になることもある。

同級生や隣近所の人で、上手に自転車を乗りこなしている人を見ると、自分も自転車に乗りたい、もっとうまくなりたいと思う。これは自然で、有益なことだ。自分の手の届く範囲で、自分が将来そうなるであろう未来の話を聞くのはモチベーションを高める効果がある。

一方で、もっともっと上手な人の話、オリンピック級のサイクリストは英才教育であそこまで行ったとか、海外の競技用自転車のカタログを見て、気に入ったモデルを見たら到底手の出る価格じゃなかったとか、そういう手の届かないところにあるものを見てしまうと、人は絶望する。

そんなことよりも、さっさと誰かに後ろから支えてもらって、実際に自転車をこいでみること、曲がりなりにも自分の力で走ってみると、体のバランスのとりかた、気持ちのおきかたといった、どうでもいいようでいて、自転車に乗る上では結構重要なコツを覚えていく。

実際に自転車に乗ることを体験してみて、競輪選手に近づくこととか、いい自転車を手に入れることなんかではなく、「自転車に乗ること」それ自体を楽しめるようになったなら、その人は結構幸せな自転車乗りになれるかもしれない。

医者になるというのは、結構苛酷な受験勉強をくぐりぬけないといけないので、どんな医者も、多かれ少なかれ競争の意識というものを持っている。

競争を続けていく人生では、周りの状況がリアルタイムで入ってくる現在というのは、苛酷な社会だ。

100年前だったら、村で一番笛が上手かった奴は、それを誇りに生きていけた。 50年前だったら、都会に出て行って、自分と同等以上に上手い人と会う。   現在では、CDを聞き、インターネットで世界中の情報を見て「絶望する」 イチバンにはなりようのない世界。 上には上がいる。それは昔から一緒だ。 しかし、世界で一番上の情報が、いきなり目の前にさらけ出される。 階段を何段登ればそこに追いつくのか?

目端の利く人間は、自分が到達できる範囲を目ざとく目測して、その結果絶望する。 3ToheiLog: キレるより引用。

競争に淫した研修医は、「一番じゃなければ意味がない」と思うかもしれない。

一番じゃなければ何番でも同じと考える人は、昨日よりも少し順位を上げた自分を誉めることをせず、「今日も一番になれなかった」自分に絶望する。

病院の中とか、内科の中。そういった、自分の順位がはっきりしてしまう場所は、まだまだ絶対に一番になれない研修医にとっては、あるいは居心地が悪いのかもしれない。

内科で「順位を上げる」ためには、とにかく論文を読んで勉強するしかない。

世界中の「机上の知識」の量に圧倒されると、病棟で生活していくうえでは欠かせない知識、たとえば医局の空気を読んだり、病棟スタッフに気を配ったり、ご飯を食べられるときには必ず食べたり、疲れているときは上司の目を盗んででも寝なくてはいけないといった知識を蔑視するようになり、またそうした知識を駆使して生き残っていく自分を卑下してみたりといった行動が見られることがある。というか自分がそうだった

なまじネットが普及してくると、数年前までは手の届く数人でしかなかった「同級生」という概念が、気がつくと全日本レベルにまで拡大する。日本中を見るとすごい同級生がいる。自分で書いた本を出版してみたり、ネットで日記を公開しては大人気を博したり。もちろん学会に論文を書いたりなんて、もう遠いどこかのやんごとなき方々の話。

そんな連中を横に見ながら、汗まみれになって手を抜きながら当直を繰り返して、とにかく一日一日をミス無く生き抜くのに汲々としている自分、なんてかっこ悪いんだと結構絶望したりした。大体、同級生の中でも出来の悪いほうだったし。

届かない未来に絶望しないで何とかやっていくには、卑怯な方法だけれど「下を見る」のがいちばん簡単だ。研修病院なら、周りを見れば「過去の自分」がそこら中でこんな格好 _| ̄|○ をしている。

点滴が入らない、重要な所見を見落とした。自分が通ってきた失敗は、翌年の連中もまた繰り返す。現在の自分が、去年の自分に何か有益なプレゼントが出来たら、もっとすごい同級生が世界中にいたとしても、自分も少しだけほめられてもいいような気がしてくる。

下級生を教えること、自転車を支えて背中を押してやることというのは、永遠に続く競争社会の中で、自分の今立っている位置に何らかの価値を見出す役にたっている、ような気がする。

ところで。医師の成長のアナロジーに、自転車は今ひとつだ…。