少ない予算で人を使う方法

年棒1000万円の人間10人を、7000万円で1億円分働かせる方法。以下のような規則を設ける。

年棒1000万円。ただし、内300万円については、自己の判断により返納する権利を有する。

「義務」ではなく、「権利」というのがポイント。

自分が1000万円分働いたと思えば、年棒1000万円。自分がまだそこまでの域に達していないと考えるならば、年棒700万円。

バカな制度と思うかもしれない。それでも、ほんの数年前まで、こうした制度は社会のどこの分野でもうまく機能していた。多くの優秀な人、特にその人が優秀であればあるほど、見返りは少なく、働きは多くといった給料の逆進性が認められた。

かつて大蔵省のエリート官僚がメーカーを査察する際、受け入れるメーカーとしては豪華な接待を用意するのが当然だったそうだ。このとき、あえてメーカーの接待を無視して、食事は駅前の立ち食い蕎麦屋で済ませるというのが、キャリア官僚の「心意気」だったという。

今は違う。今も昔も、キャリア官僚という人たちは、日本で一番先に時代を読んでいる(と思う)。時代は変わり、自腹の立ち食いそばはノーパンしゃぶしゃぶの接待の請求へと変わった。何が変わったのか。

年棒1000万円で契約したならば、今は誰もがとりあえず1000万円を取る。以前ならば、同じ仕事をしても700万円ですんだ。今は1000万円。給料を700万円に減らしたら、仕事も700万円分しかなされない。この差はどこからくるのか。人間が皆卑しくなったのか。時代が変わったのか。

人は、自分の成長した姿が想像できれば、現在の自分を小さく評価する。

昔は、コツコツと勉強さえしていれば、自分の5年後、10年後の成長した姿というものを、かなりリアルに想像できた。成長する目が「堅い」ならば、なにも今をがっつく必要は無い。

「あと5年もすれば、自分は1000万円を胸を張って手にするぐらいには成長できる。」謙遜する姿というのは美しい。300万円の差額については、自分の未来のためにあえてあきらめるという選択は十分「あり」だった。

コツコツと何かを積み上げるという行為には、昔は大きな価値があった。

一発勝負に出るのとは違い、地道な努力を積み上げる行為は成長が遅い。反面、努力しただけの見返りというものは必ずあった。自分の5年上、10年上の先輩方を見ていれば、それをロールモデルとして頑張ることができた。

今は違う。どんな人間でも、来年の自分の姿さえ想像できない。かつて努力の果てに「成功」を手に入れた先輩方は、「今までの努力なんて無駄だったよ」とばかりに大病院の部長クラスの椅子を放り出し、どんどん開業している。

自分が積み上げてきた過去の勉強時間の価値など、もはや誰も保証してくれない。自分の積み上げるものに自信が持てず、未来を確信できない人は、現在の自分の価値をお金で査定してもらうしかない。

個人の費やした努力や時間の価値を保証してくれたのは、大昔なら神様だった。宗教の力がだんだんと弱まった頃、戦争が終わって神様がいなくなってしまった世界では、「世の中のため」「日本の繁栄のため」といった目的が、「プロジェクトX」世代のエンジニアの士気を支えた。

とりあえず経済的な繁栄はなされ、がつがつ働く人が馬鹿者扱いされる現在、努力の価値を請け負ってくれる存在はなくなり、お金以外に信じられるものはなくなった。

医者の世界も、かつては神を祭っていた。医局のトップは、文字通り「現人神」として全ての医師に君臨し、医者を統治することで、同時に医師の努力を「保証」する役割を担ってきた。

もちろん医局制度の弊害として叫ばれているものがあったのは十分承知しているけれど、「自分が費やして来た時間の価値を保証し、それに連らなる未来の夢を見せる」という医局の機能を補間する仕組みは、医局の力が落ちてから、ついに再び作られることは無かった。

もともとは「神の世界」であったはずの大学病院に残ったのは、疲れきった医局員と、医者をまるで汚い生き物でも見るかのような視線で見下ろす、働かない事務官のみ。権威は地に落ち、効率の悪さだけが目立つようになった。

まじめに働いて報われた人なんて、医者の世界ではもはや見ることもない。

「成功する」という概念は、どうしても経済的な要素からは逃れることができないけれど、過去に費やした時間の価値を周囲に認めてもらえると、人はけっこう幸せになれる。

例えば宗教がそうだ。その宗教に全く興味のない外野から見れば、一見無意味にも見える行為に多大な時間を費やす。それでも、何も信じられない無神論者に比べれば、ある部分宗教家は幸福を約束されている存在だ。

自分は市中病院で研修->大学で循環器->僻地数箇所を転々->また大学で、循環器内科医としての競争という意味では、同世代の人たちに比べると、完全に負け組みだ。

面と向かって「お前何やってきたの?」なんていわれると、むちゃくちゃに傷つく。

一方で、自分のネタだらけの経験は、飲み会のときなどでは役に立つ。馬鹿話で周りに受けると、ちょっとだけ救われる気分になる。

こうした「お互いのコミュニケーションを介した、過去に費やした時間の価値の評価」というのは、もしかしたらいなくなった神様の代わりになるのかもしれない。

ネットワークが発達した現在、他人の経験の検索は容易になった。どんなにマニアックな経験であっても、世界中を探せば、それを必要とする人がいたり、その経験が役に立つ人がきっと見つかる。そういう出会いを提供できるならば、ネットの発達というものは、なにか人を幸せにする力を持てるのかもしれない(ネットの神様というのがいたとして、やはりしっぽは長いのだろうか?)。

厚生省は率先して大学医局を解体したけれど、彼らは人間の夢や希望の持っていた力を安く査定しすぎていたように思う。いまさら取り返しはつかないけれど。

神殺しの償いは、血税を投入して行ないますってか?