報われない医療過誤防止の努力

人間という生き物はばらつきが大きくて、同じことをやっても、トラブル無く上手く行く人と、どんなベテランがやっても上手くいかない人とは確実に存在する。

安全を求める努力は自壊する

治療に関するトラブルというものは避けようがない。それを減らすことはできる。それでも、トラブルを減少させるには莫大なコストがかかる。

トラブルを減らし、安全性を高めるためのコストというのは完全を求めるほど高くなる。技術的なブレイクスルーを脇に置くと、安全率80%のものを90%に引き上げるには、そんなにお金がかからなかったりする。一方で、安全率99%のものを99.9%にまで引き上げるには、莫大なコストがかかる。後者の0.9%のコストにかかるコストは、前者の10%にかかるコストに比べると10倍以上になることも珍しいことではない。

こうしたコストをいくらかけても、患者さんの安全に対する満足度は、医者がかけたコストほどには上昇しない。

医師は割合でものをみるが、患者は絶対数でものをみる。1000例中10例のエラーを出していたのを1例にまで下げられたとき、医療者側は10分の1に減ったことを喜ぶが、患者側はたったの9例しか変わらないことを嘆く。

医師は失敗に注目するが、患者は成功例に注目する。医師にとって10が1に減ったのはすばらしいことだが、患者にとって990が999になっても、誤差範囲。

失敗を減らす医師の努力は報われることはない。

事故の確率が減れば減るほど、1回の事故における医療者側のダメージは増していく。医学の進歩の結果、いくつかの治療の安全度は向上し、成功率は高まったが、一方で医師は「常に成功すること」を求められるようになった。安全で、確立された治療であるほど、医者にとっては危険で、できればやりたくない治療になる。特にそれが、失敗すると致命的な合併症が生じるような手技であれば。

どんな治療であっても、それが世の中に出現した当初は危険なもので、また全ての人に適用できる治療にはなりえない。治療の対象となる患者さんは、「生きるか死ぬか」といった人ばかり。新しい治療手段は成功率も低い。最初のうちは、成功率の高そうな患者さんをセレクトして治療を行う。

この時期の医師-患者関係は、医者にとっては楽なものだ。

その新しい治療手段を適用しなかったら、患者さんの命が危うい。しかし、その治療はまだ始まったばかりで、成功率は必ずしも高くない。ギャンブルだが、賭けてみる価値はあるかもしれない。医師も必死になり、成功すればお互い大満足。

同じ病気で苦しんでいる人は、この時点では世の中に大勢いる。それでも、100匹の魚を釣った漁師は、「海の中にはまだ一万匹いるのに」とは思わない。100匹もつれれば、その日の収穫としては十分満足。海の中の一万匹に思いをはせるのは、また今度。治療を確立した第一世代の医師は、十分満足したまま現場を離れ、歴史に名を刻む。

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治療が確立してくると、その治療の有効性が世間に認知されるようになる。患者は殺到し、その治療には柳の下のドジョウを求める医師も集まる。安全率はだんだんと向上する。安全性の向上とともに患者数も順調に上昇し、その治療はその分野の覇権を握る。その治療を行う医師達は、医療のある分野に一大帝国を築き上げる。

覇権を握った医師達には全ての利益が集まるが、一方でその帝国を維持していくための責任が生じてくる。医師の責任は増し、その治療が適応になる全ての患者を治療する義務が生じる。大きくなった帝国には反乱分子も増える。犠牲の上に築きあげられた、標準的な治療を批判して、アガリスクや霊芝を売り抜ける連中。治療を行う医師に患者を紹介するだけ紹介して、利益は全部持っていってしまう頭のいい医師。覇権を握らなくとも、栄えるすべはいくらでもある。帝国を担っている医師には、いつしか責任だけしか残らなくなる。

覇権を維持するのがバカらしいと皆が思うようになった頃、帝国は瓦解する。医者は去り、新しい治療手技が台頭してくる……そんなわけにはいかない。お産はどうする?カテは?脳出血の治療は?

このまま行くと、お互いが不幸になる。

安全から安心へ

医者がいくら努力しても、それが誉められないから皆嫌になる。みんな屈折しているから、いまさら国から「安全メダル」みたいなものをもらったところで、誰もうれしくなんか思えない。病院には人が集まる。世間様の空気ぐらい、白衣を着てても分かる。

医者の努力がなぜ報われないのか?おそらくは、医療者と患者とで、求めるものが違うからだ。

患者の求めているのは「安心」なのに対して、医者が追求しているのは「安全」だ。

「安心」という言葉は、なにか口先だけのような響きがあって、技術者たる医者からすると、安心を追求するのはなにか邪道な気がする。一方で「安全」というのは数字で表せ、統計に乗る。医者はこっちに命をかける。

安全と安心の方法論

安全と安心とでは、それを改善するためのやり方が違う。

前者を改善するには、ひたすらに一次防衛ラインを強化するしかない。上手くいかないものは全て失敗にカウントされる。失敗の確率は、限りなくゼロに近づけることを求められる。

一方で安心感をもたらすためのアプローチとは、失敗を生じた際の「次の一手」を考えておくことだ。失敗の危険は一定レベルで残るにしても、致命的な結果は回避するルートを常に考えておく。

安全を追求したシステムというのは、コストがかかり、小回りが効かない。失敗が許されないから、逆に失敗が起きたときに回避手段がない。この方向でいくら努力しても、患者さんの安心感は増すことが無い。

安心なシステムというのは、たぶんシステム全体の動作や原理が、ユーザーの目に見えること、たとえ何かトラブルが生じても、何らかの回避手段が用意されていることが、ユーザーにはっきり認識されていることなのだと思う。

(スペースシャトル)ディスカバリー号の窓の保護カバーが脱落して耐熱タイルを傷つけたことに対するNASAの広報スタッフの対応に感心していた。トラブルが発覚して報道陣が駆けつけると、広報スタッフがすでに何人も待ちかまえていて、記者の一人一人に現状がどこまでわかっていて、次に誰がどこでどうするという話を手際よく伝えていたとのこと。

広報スタッフの一人一人に与えられている説明可能な権限の範囲がじつに手広く、しかもお互いに横の連携がとれていてよどみがない。直前に打合せをして「何をどこまで話してもよい」という調整をしてあるのだろうけれど、それにしてもすばやい、とのこと。日本だったらこのような場合、「それについては何時何分から説明会を開きますので、それまでお待ちください」という回答しかもらえない、という。

5thstar管理人日記: 逆取材

このあたり、忙しい少数のスタッフと、患者さんと自由に話すことを許されない研修医でつくる現状のチーム医療というものは、医者-患者相互の信頼や、安心感を壊す方向に働いてしまっている気がする。

「安全」であるシステムは「安心」であることが多いが、100%そうではない。たとえ安全が保障されているものでも、安心感は得られないものも多い。

一方で、安全でなくとも安心なシステムというのは考えられないものだろうか?何か失うものが出てきても、生命を失う事態を回避する手段が明示されているならば、安全は完璧でなくとも安心は得られるのではないだろうか?

システム全体の安全率を高める方向と、システムの透明性を高めたり、回避手段を整える方向とは、両方ともお金がかかる。それでも、安全率が高まれば高まるほど、後者のコストは相対的に安くなる。

産科医でもないのにいつもお産を引き合いに出すが、昔の医者は急変時の回避能力が高かった。ほんの10年前まで、まだまだお産というのは命がけの要素が入っていたけれど、その時代をくぐってきたベテランは頭の切り替えが早い。

お産がトラブルに陥るとき、母体の命とトレードオフの関係にあるのが子供の命であったり、次回の妊娠が可能になるかどうかであったりと、主治医はかなり重い決断を迫られる。決断までに許される時間は数分単位で、決断が遅れると共倒れになる。

こうした修羅場をくぐってきた人たち、ちょうど今スタッフになっている人たちは、トラブルを起こしたときの次の一手、その次の一手の具体的なイメージを、かなり具体的に持っていて感心させられる。こうした人たちと一緒に仕事をしていると、たとえトラブッても大丈夫という「安心感」を感じる。

このあたりのイメージ力が、自分達の世代とベテランとの決定的な差になっていて、同じ患者さんを持っていても、相手に与える安心感、信頼感がぜんぜん違う原因になっているように思う。

修羅場を切り抜けるすべを皆が身につければ、きっと患者さんの安心感は向上する。

何とかしてこの「修羅場を乗り切る知恵」みたいなものを学びたいと思ってはいるのだが、安心した若手は悪いことから覚えていく。手技はアクロバチックなところ、派手なところから受け継がれ、大事なことはなかなか覚えられない。