次元を下げて理解する

そのまま扱うにはあやふやすぎて、どこから手をつけていいのか分からないものを理解するためには、 「それによって何ができるのか」よりも、むしろ「それによって何ができないのか」、 あるいは、「不要な機能は何ですか?」と顧客に尋ねるのが正解なんだと思う。

コミュニケーションを図示してみる

掲示板やblog、電子メールみたいな、ネット世間でのコミュニケーションには 様々な道具があって、それでもまだ、足りないし、新しいやりかたが発見されていない気がする。

コミュニケーションというものは、考えかたとしてあいまいすぎて、どこから手をつけていいのか分からないところがある。

2次元の生き物が「立体」を理解できないように、こういうものを理解するためには、 理解の平面を強引に設定して、平面に投影された「影絵」として、コミュニケーションというものを 理解した方がいいのだと思う。

「コミュニケーションメディア」を構成する登場人物に、とりあえず、管理人みたいな「発信者」、 読者に代表される「メッセージの受け手」という、2者を用意する。決まりは絶対じゃないし、 メディアによっては、主客が逆転することも珍しくはない。

メディアを平面展開するために、「発信者の発信しやすさ」、 「過去ログの参照しやすさ、メンバーの「顔」の見えやすさ」、 「読者相互のコミュニケーション可能性」という、3つの評価軸を仮定する。

それぞれ「それができる」「むしろボトルネックになっている」という条件に対して、それぞれ「1」と「0」とを割り振ると、 「コミュニケーション」というあやふやな物体は、3次元の立方体として、座標空間に浮く。

「人間は平面に写ったものまでしか認識できない」と強引に決めつけると、 本来「立体」であるコミュニケーションは、「どれをあきらめるか」によって、 たぶん6つの「面」と、12本の「線」して理解される。

「面」のメディアと「線」のメディア

恐らくは「点」だとコミュニケーションが成立しなくて、「線」のコミュニケーションは、 たとえば電話や手紙みたいに理解しやすい代わり、代償としてあきらめなくてはいけないものが多くなる。

座標は(0、0、0)から(1、1、1) まで、コミュニケーションのありかたは、 恐らくは「12本」と「6面」に展開できる。

たとえば blog というメディアは、発信する側のスペースは広大で、 いつでも好きなことを書ける反面、読者とのコミュニケーションは、 伝える側のエントリーが発信されない限り、開始できない。 発信者のエントリーなしには、読者はメッセージを伝えにくいし、 コメント欄の話題は、エントリーの内容に縛られるから、読者相互のコミュニケーションもとりにくい。

これが掲示板になると、伝える側も、応じる側も、発信の域値を下げられるけれど、 何かが書かれてから、次の応答が返ってくるまでの間、そこにいるメンバーは、待っていることしかできない。 勝手にしゃべるとログが流れてしまうから、発信する側の自由は制限されるし、一人でたくさん書く人は、 掲示板のスペースを奪ってしまう。

チャットメディアは発信の敷居が低いし、誰が言葉を発しているのか、メンバーの「顔」がよく見える場所だけれど、 「流れ」の支配力が強い。流れに縛られて、好きなことを、好きな時間に書くことが、そもそも難しい。

Twitter は、コミュニケーションのボトルネックに相当する場所が一番少ない気がする。好きなことを書けるし、 話題が切れても独り言を続けられるし、誰かがそこにいればチャットになる。その場に居合わせなくても、 ログをたどればメッセージを送れるし、そこにいない人間であっても、こちら側から呼びかけることすらできる。

恐らくはWiki にも同じところがあって、両方とも、自由度が高すぎて、どこか「立体」に 近いメディアだから、そのことがたぶん、こうしたサービスの理解を難しくしている。

見えない「面」がどこかにある

わかりやすい「線」のメディアは、わかりやすさの代償として、様々な場所にボトルネックを抱えている。

伝統的な電子メールは、こちらが発信したあと、相手からの返信がないと会話が続かないし、 なによりも、会話がリアルタイムじゃないから、多人数で会話するのが難しい。 同時発信機能を使った「メーリングリスト」は、他の人が何を考えているのだか、 読者相互のコミュニケーションが難しいから、メーリングリストは宿命的に荒れ出して、 いい状態を長く維持するのが難しい。

電話みたいな有線メディアは、リアルタイムなようでいて、ボトルネックが多い。 誰か重症の患者さんを、どこか高次の施設に転送のお願いをするときなんかに、 コミュニケーションはしばしば凍結して、怖い思いをする。

患者さんの転院をお願いする。相手から「折り返し連絡致しますので、しばらくお待ち下さい」なんて返事をいただく。 このときすでに、自分たちは、何もできない状態に置かれる。他の病院をあたることはできないし、 「今こんなことをやっています」なんて、電話の向こう側に伝えてしまったから、待っている間に患者さんが変化しても、 それに対して対処をするのが、なんだか心理的に難しい。電話のコミュニケーションは、「濃度」が高すぎて、 電話はしばしば、相手を金縛りにかけてしまう。

今はたぶん、ネット世間のコミュニケーションも、あるいは実世界でのコミュニケーションもまた、 「線」の時代から「面」の時代へと移行しつつあるんだと思う。

それぞれのコミュニケーションメディアを「立体の平面投影」という形で分類していくと、 何となく、どこかにまだ使われていない「平面」が残っているような気がする。

恐らくはそうした「面」をプラットフォームにして、まだまだこれから、 面白いサービスが生まれてくるのだと思う。