「無能な上司」という能力

皇国の守護者」という、戦記物の小説を読んだ。

戦記物の常で、主人公は能力があるのに低い地位に甘んじていて、軍隊には、無能な上司があふれてた。

主人公が活躍するたび、「無能な上司」はそれを無視したり、足を引っ張ったり、 あるいは間違った判断を下すことで、主人公を不利な状況に追い詰めたり。

売れた小説というものは、多かれ少なかれ、社会の鏡として機能する。

この小説はずいぶん売れたみたいだから、「不遇な有能」である主人公と、 それを取り巻く「無能な上司」という構図に、自ら置かれている社会を見た人は、 きっと多いのだろうなと思う。

無能な上司のお仕事

小説世界、主人公はもちろん大活躍するわけだけれど、 その舞台を設営するのは、「無能な上司」の大切な仕事。

設営の条件は厳しくて、どうしようもない無能しかいない軍隊を設定してしまうと、 そもそも主人公が活躍するはるか以前の段階で、戦いが終わってしまう。

主人公が活躍するための舞台である軍隊は、だから列強と互角に戦える程度には有能であって、 なおかつその上層部は「無能」で占められていて、主人公を取り巻く有能な下士官もまた、 主人公が登場する以前の段階では、その能力を発揮することは許されない。

主人公が登場して、物語が始まるまでの間、「無能な上司」は、自らの能力を何ら認識されることなく、 もちろん軍隊にいる「隠れた無能」の力を引き出すことも許されないまま、自分が指揮する軍隊を守り通さないといけない。

「無能な上司」役を演じている登場人物は、ある意味主人公よりもよっぽど難しい条件を作者から押しつけられて、 しかも「出世すること」を義務づけられている。

「無能な上司」は果たして、主人公に比べて、本当に無能なんだろうか。

出世に能力は必要ない

いわゆる「出世」を考えたときに、外から見える「能力」を持っていることは、たぶん本質たり得ない。

成功は偶然だけれど、失敗は必然。失敗した人、能力を認められない人というのは、 失敗に至る過程のどこかで、必ず「失敗につながる必然」を踏んでいる。

ある人が偶然をつかむと、それが他者からは「能力」として観測される。

能力は分かりやすいけれど、あくまでもそれは偶然であって、その人の「有能さ」を どれだけ詳細に記述したところで、個人の前を通るものが偶然でしかない以上、 誰かの能力を、観察を通じて再現することは難しい。

「失敗につながる必然」を踏まない、そんな能力のありかたは、恐らくは目に見えにくい。

失敗につながる必然を踏まない人というのは、恐らくは何事も起きないかのようにただそこにあり続けるだけで、 たまに「運良く」何かを拾って「出世」して、上に上がったその場所で、再び無為に佇んでいるようにしか 見えないだろうから。

「成功する」ためには、偶然を生かさないといけない。偶然をつかんだ誰かを観測するのは容易であって、 そのドラマは面白いけれど、成功譚をいくら読んだところで、それを再現することは難しい。 「失敗しない」でそこに在り続ける人は「つまらない」から、そのやりかたを記述したところで、 重要そうにも見えなければ、読者が読んで面白いドラマにすることも難しい。失敗しないやりかたは、 それでも万人に共通だから、学習を通じることで、それを再現することができるはず。

小説世界から何かを学ぼうと思ったならば、逆境を持ち前の能力と勇気で解決していく主人公よりも、 むしろ主人公の足を引っ張る「無能な上司」、無能であるにもかかわらず、 能力を見せることを許されない立場にもかかわらず、主人公に倒されるその瞬間までそこに在り続けた、 そんな人達の行動原理を想像したほうが、何か役に立ちそうな気がする。

穴の空いた床を見ること

組織というのは、穴だらけの床を持ったビルディングみたいな構造をしている。

穴にはまったら下の下位に落ちるし、下から見た「上の床」は天井だから、 そのビルの天井にもまた、無数の穴が空いていて、運がいい人は、天井の穴に手が届いて、 上の階へと上っていく。

みんな上に行きたくて、「天井の穴」ばっかり気にして、床に空いた穴を見ようとしないから、ときどき落ちる。

大事なことはたぶん、「床の穴」に自覚的になって、まずはしっかり床に立ち続けて、どこか高いところ、 天井に上りやすい場所に行き当たるまで、穴を避けて歩き続けることなんだけれど、 穴の見えない、あるいはもしかしたら、床の穴なんて見たくない多くの人は、成功した人達が、 「穴を避けている」のではなく、「天井にぶら下がっている」ように見える。

有能な上司というのが仮にいたとして、そういう人は、「下」の誰かを引っ張り上げるのが上手なはずだから、 その人は間違いなく、「床の上」にたっている。同じフロアにいる人であっても、その人が天井から ぶら下がっていたのなら、その人は本来、下の階に手をさしのべる余裕なんて無いのだから。

皇国の守護者」8巻、本の真ん中あたりには、 主人公と対立する人物、味方でありながら、 有能な主人公の足を引っ張る「無能な上司」が、挿絵として描かれる。 主人公なんてかすんでしまうぐらい、魅力的な人物として描写されている。

絵の力は時に物語をひっくり返すけれど、これだけ魅力的な人物をして、 どうしてこれが無能でありあるんだろうなんて、そんなことを考えた。