健全な保身について

危機管理というものは、「健全な保身を全面に出せる環境作り」のことなのだと思う。

これに失敗したチームは、不健全な倫理に空気を支配されて、そこにいる誰もが道徳を唱えつつ、リーダーはモラルの欠如を嘆くようになる。こうなってしまうともう、かけ声ばかりが大きくなって、問題の解決は遠ざかる。

正解はたいていつまらない

問題の設定は可能な限り面白く、問題の解決は可能な限りつまらないやりかたで行われることが、たいていの場合の望ましい。

問題を面白く設定することは、解決を容易にする可能性がある。その一方で、つまらなく設定された問題を面白く解決しようとする試みは、必ず災厄をもたらすことになる。

これがハリウッド映画なら、問題が発生して状況が悪くなったときには、「俺たちが本当の解決を教えてやる」なんて、頑固を絵に描いたような軍人が登場する。「それしかない」というあきらめが蔓延した頃、軍人の頑固を超えるアイデアを携えた主人公が、問題をスマートに解決してしまう。

頑固な専門家に対して、素人のひらめきが状況を打開できるのは、たぶん平時に限られる。

「平時」と「有事」の違いというのは問題設定の自由度であって、平時には、問題を自分の意思で設定することが可能になるから、そこで初めて、「面白い問題解決」に出番が生まれる。有事の時には、問題は向こう側からやって来る。問題が面白いこともあるし、たいていはうんざりするほどつまらないものだけれど、問題を選べないときには、頑固で古めかしいやりかたにこだわらないと失敗するし、問題の解決は、それを「つまらなく」解くことに慣れた人がやらないといけない。

大怪我をしたとか、強盗に襲われたとか、生き死ににかかわる本当の有事には、普段練習している行動しかできなくなる。その時になって、いきなり医学の知識を思い出したり、格闘技の才能に目覚めたりといったことはありえないし、そんな奇跡を当てにすることは、普段の準備をおろそかにしていい理由にはならない。

有事に備えられる人は多くない。救急隊や警察はそのために組織されていて、彼らに有事対応をアウトソースすることで、日常生活はそこそこ安全に回る。

備えのない人が緊急事態に遭遇すると、何もできないか、その時ひらめいたアイデアが、状況を悪化させる。練習したことのない問題に対峙したのなら、まずはその問題から可能な限りの距離を置いて、有事対応の訓練を積んだ人を呼んでくるのがたいていの場合は正解で、国内で、個人のレベルなら、これでたいていの問題は、暫定的に解決できる。

奇跡は起きない

一発逆転の幻想は、苦境に陥った人をさらに追い込む。

苦境に陥った人は、恐らくは誰もが希望的な憶測を持つ。もう少し粘れば、状況は「自然に」解決して、周囲に迷惑を及ぼさずに済むのではないかと考える。そうした希望は災厄の入り口であって、それが頭をよぎったならば、その瞬間に全力で動かないといけない。

いつも患者さんを丸投げするような個人クリニックが、たとえば「原因不明のひどい腹痛を訴える若い人」を、なぜか午前中から外来でずっと点滴を続けて、検査をするでもなく、痛み止めだけ使って夜まで経過を観察して、患者さんの意識が悪くなってからあわてて救急搬送される、そんなケースがごくまれにある。

その医師が、お金と保身だけを考えて仕事をするなら、絶対にやらないような判断の遅延は、怠惰ではなく、むしろ「やる気」や「臨床医としての矜持」みたいな、美談の文脈から生まれる。能力に欠けた人が英雄を目指すと、たいていはろくでもないことになる。

後ろ向きな心構えが大事なのだと思う

正解はたいていつまらない。英雄はどこにもいない。何か抽象的なもののために、リーダーが「命がけで頑張ろう」と声を上げるプロジェクトは、必ず失敗する。

解決すべき問題が難しいときこそ、「容認されたリスクと与えられた予算の範囲でやれることをやりましょう」と声をかけること、チームで後ろ向きな覚悟を共有することが大切になってくる。

チームで問題の解決に当たる際には、メンバーは、その問題の「有事度」をどの程度だと考えているのかを表明すべきなのだと思う。どんなやりかたであれ、それを定量して、表明できない人には問題解決に参加する資格がないし、有事度の定量と、ものさしの共有ができたなら、合意形成はもうできているとも言える。

漠然と「有事度」が高いときこそ、スマートな提案でなく、その場に出席した全員が、あまりの阿呆さにげんなりするような、身も蓋もないやりかたが選択される。保身の力学が健全に作用したチームにおいては、場の有事度が共有されたその時点で、選択肢は必然的に、そんなやりかたしか残らないはずだから。