否定の深度について

「いい仕事してますねぇ」の、「なんでも鑑定団」に出てくる鑑定人、中島誠之助の語りが素晴らしいと思う。いかがわしさと人当たりのよさと、矛盾が見事に同居しているようなあの話芸は、出品されたものが「贋作」であったときに、出品者を否定するときに威力を発揮しているように思える。

欠けているものと過剰なもの

鑑定を依頼された何かが「偽物」であったときには、鑑定人の人たちはたいてい、「これは本物ではありません」と、冒頭に宣言する。宣言したあと、「依頼品にはこの要素が欠けています」と、本物に比べて、足りないものを指摘する。やりかたとして、これは全く間違っていないけれど、鑑定を依頼した人は、「欠けている」その依頼品を嫌いになってしまう。

中島誠之助が偽物を鑑定するときには、「もしも」から入る。

「もしも本物だったら」で語りをはじめて、それが素晴らしい価値を持つこと、当時人気があったこと、現存していればすごい発見であることを語って、「この依頼品は、本物にしてはよく出来すぎている」とつなぐ。贋作を作った人の熱意というか、本物を目指して、力を入れすぎたあまりに「本物を超えてしまった」から、これは偽物なんだと話題を盛り上げて、「あえて欠点を上げるとすれば」と、そこで初めて、欠けている部分をいくつか指摘する。

最後は決まり文句の「いい仕事をしていますねぇ」で結んで、「これを大切にして下さい」と、依頼品を依頼者に返す。それがたとえ偽物の鑑定であっても、それは立派なもてなしに思えるし、偽物と鑑定された依頼人も、その「偽物」を、案外大切にできそうな気がする。

決まり文句には伏線がある

博物館の学芸員をしているような鑑定士の人たちも、中島と同じく、「いい仕事をしている」というフレーズを使おうとする。ところがあの言葉は、依頼品を持ち上げて、それを見出した依頼者を持ち上げて、はじめて「いい仕事」に意味が生まれる。「ここが欠けている」と指摘されてから「いい仕事」といわれても、依頼者にはたぶん響かない。

中島誠之助の「いい仕事してますねぇ」という言葉は、あの言葉自体が見事なのはもちろんだけれど、そこにたどり着くまでの話の組み立てかた、依頼者や依頼品のもてなしかたが上手だからこそ、言葉が生きているのだと思う。

本来の「商売人の語り」というものは、顧客をもっと楽しませるようなものなのだと思う。「これだけ買うからこれだけ値引いて下さい。それが御社の利益です。win-winです」といった言い回しはたしかに間違いでないし、「いい仕事してますねぇ」に比べても、顧客の利益は大きいのかもしれないけれど、商売人の言葉とはどこか違う。

再現性を持った技術という意味では、大量購買、大量値引きを力尽くで押し進めるやりかたのほうが正義で、話芸に頼ったやりかたというものは、最後は物量に押し切られてしまうのだろうし、中島誠之助の話芸というのは他の人に再現が出来ないからこそ、あの人が「芸」を見せられるのだろうけれど。

否定には奥がある

昨日の「なんでも鑑定団」では、依頼者が1000万円で購入した茶碗を出品して、中島誠之助が、そのお茶碗は「よくできた贋作」であるという鑑定を行って、3万円という価格を提示した。

普段だったら、「いい仕事してますねぇ」につながる語りが入って、「大事にして下さい」で締めるのだろうけれど、1000万円の損失は、どう言いつくろったところで詐欺被害であって、その状況を名人がどう収めるのか、興味があった。

中島はのっけから、「これは非常によくできた贋作です」と断じた。

いつもの柔らかさとは遠い、どこか怒ったような口調で口上をはじめた。まずは形がよくない、釉薬の色がこれではいけない、目につく欠点を最初に指摘した。

「このお茶碗はそもそも」と、本物に関する語りに入ったあとも、口調はずっと固いというか、怒ったようなままだった。本来は武将の使う器であること。まわりに付けられた溝は飾りなどではなく、戦闘中にも一服の茶を楽しめるよう、絶対に滑らないように鋭く付けられるものなのだと。

本来は鉄分の多い土で作られたのだと、語りをつなげた。手に刺さるような、尖ったような質感がでないといけないのだと。「本物」は苛烈な実用品であって、それに比べると鑑定品は「優しすぎる」のだという文脈で、間違いを指摘していた。

語りの後半は鑑定書に移った。それは権威ある鑑定者の直筆で、鑑定書自体は本物のようだった。それを書いた人はベテランの鑑定者で、権威があって、でもこの焼き物についての知識はそこまで多くはないはずだと、鑑定者のことを評していた。

話はさらに、鑑定者の年齢に移った。御年88歳、権威ではあっても、必ずしもその領域でない、しかも高齢、不利な条件が重なって、「だから鑑定を間違えたのだ」と落とすのかと思ったら、「間」が一瞬あって、「情けが出たんでしょうね」で締めた。

中島の語りかたは、最初から普段と違っていた。一切の間を置かない、いっそぶっきらぼうに聞こえるような、どこか怒ったような語り口は、まさにこの間のためにあった。ほんの一瞬話が切れて、苛烈な語りが、「情け」という優しい言葉に転化した。

「情けが出たんでしょうね」という言葉を、一息で、いっそ軽い印象で言い切ってしまうのが芸だと思った。あれを「情けが、出たんでしょうねぇ」と抑揚を入れると池上さんのニュース解説になる。分かりやすいけれど、そこに重心を持ってきてしまうと、主役が「もの」から「人」へと移ってしまう。それはたぶん、骨董屋さんの話芸とは違う。

「いい仕事」にはもっと先があって、語りの流れそのものが、何かよくできた演劇を見ているようだった。

制裁は仲間への招待

鑑定の最後に、中島は「この作品に私が本物という鑑定を下したら、恐らくは全国で本物で通じます。ですがそれをやるわけにはいかないのです。だから3万円という値付けを出しました」と結んだ。普段だったら、「よくできている」贋作に対しては、せめて何十万円かの価格を出すところが、慰めでなく、むしろ制裁としての価格を提示した。

鑑定書を書いた先達を「無能であった」と断じれば、ある意味丸く収まるところが、それをやってしまうと、買った人が単なる被害者になってしまうし、「その贋作に価値を感じた」という、買った人の眼力をもおとしめてしまう。かといって、下手な価格を付けて、「大事にして下さい」をやったところで、1000万円は金額が大きすぎて、どうやったって納得なんていくわけがない。

中島の「3万円」という値付けは、「プロとしての仲間への制裁」であったのだと思う。

中島ほどの名人ですら、「本物と鑑定してもいい」と言わしめるぐらいによくできた贋作を、あえて見せしめに近いような価格を提示されることで、それに1000万円を支払った依頼人は、単なる骨董好きの素人から、プロフェッショナルの側へと引き上げられた。

お客さんなら慰めて、褒め称えるところを、あえ叩いて、贋作であると断じてみせることで、あの3万円は、30万円で「大事にして」よりも、むしろ価値を持った。

単に「贋作ですね」でもなく、「いい贋作だから大事に」でもなく、否定には、もっともっと奥深さがある。

あれはどうやったって名人芸だから、真似ようとしても無理なのだけれど。