形が機能を支配する

形が機能を支配する

待合室に座っている患者さん達が、携帯ゲーム機で遊んでた。

大人も子供も、イヤホンつけて、膝の上にゲーム機抱えて、みんな同じ格好をしてた。

そこで行われているのはゲームだけれど、ある意味その姿は、未来の風景の先取りなんだと思った。

形から入るやりかた

何か新しい物を広めようと考えたときに、「形から入る」やりかたのほうが、正解に近いのだと思う。

機能は十分だけれど不格好な製品をまず出して、それを改良するやりかたと、 機能はまだ不完全もいいところだけれど、形だけは、デザイナーが描いた「未来」になっている製品をまず作り上げて、 機能はあとから作り込んでいくやりかたとがある。

技術者のコミュニティに受け入れられて、新製品に最初に飛びつく人達が未来を感じるのは、 たぶん十分な機能が実装された不格好な製品なんだろうけれど、最終的に広まって、 未来の日常の中で、風景として認知されるのは、たぶん形から入った製品になるような気がする。

携帯電話のご先祖は、自動車電話だった。

高価だった自動車電話は、そのうち改良されて小さくなって、今では誰もが携帯電話を持ち歩く。

技術的には、携帯電話は車載電話の延長線上にある製品だけれど、文化的には、 携帯電話と車載電話とは、どこかで断絶があるような気がしている。

車載電話は、固定電話に移動という機能を付加した。車載電話は、持ち運べる家である「自動車」 に備え付けられた固定電話だから、技術的にも文化的にも、固定電話と車載電話は間違いなく 地続きのものだけれど、携帯電話の文化的なルーツとなったのは電話機ではなくて、 むしろ子供の頃に遊んだおもちゃのトランシーバーだとか、特撮ヒーローが使っていた無線機だとか、 そんな「風景」なのだと思う。自宅の電話機も、電話ボックスも、自動車電話も、 電話という風景は、本来「部屋」とは不可分なものだから。

組み込まれた動作セット

このあたり完全に妄想だけれど、自動車電話が小型化されて、携帯電話が一気に広まった理由というのは、 恐らくは料金プランだとか、生活スタイルの変化だとか、そんな分かりやすい理由とは別に、 「街で無線を使って会話する」動作セットが、たぶん70年代生まれ以後の人達には、 様々な物語、ウルトラマンだとか、宇宙戦艦ヤマトみたいなものを通じて、 最初から組み込まれていたからなのだと思う。

病院の待合室では、待っている間、子供は誰でも携帯ゲームで遊ぶ。 あれはたしかに、まだ単なるゲームでしかないけれど、「液晶画面がくっついた道具を片手に持ち歩いて、 それで何かする」、そんな動作セットは、彼らが大人になっても、変わらずにそのまま残る。

iPhone みたいな携帯情報端末は、いずれどこかで急速な普及をするだろうけれど、 それもまた、恐らくは技術者の努力だとか、画期的なコストダウンだとか、機能的な理由とは別に、 ある文化が日常の風景として一般的になるタイミングというのがどこかにある。携帯ゲームは、 たぶんそんな新しい風景を受け入れるための動作セットを作り出している。

iPhone を今利用している人達は、あのデバイスの「新しさ」が面白いという。

新しさというのは意識に対する違和感で、意識というものは、 生まれてから今までに蓄積されてきた、動作セットの蓄積だから、iPhone はたしかに新しいのだろうけれど、 あのデバイスはまだ新しすぎて、日常の風景として、あれを受け入れた人は少ないのだと思う。

何か日常で使うものを広めるときには、それを使う人に、驚きを与えてはいけない。新しさとか、 驚きという価値軸は、遊びとか、ゲームをするための道具にあるべきもので、日常で使うものに 新しさを付加する考えかたは、どこか違う。「新しい」道具は、機能が好きな人には受けるかもしれないけれど、 形から入る人、「キャズム」を越えた先にいる、本来その道具を大量に使うであろう多くの人には、 その新しさが足かせになるような気がする。

たとえば人型のロボットがいたとして、それが人のように振る舞うのを見ても、違和感を感じる人は、たぶん少ない。 「家事ロボット」みたいなものが将来発売されるとしたら、たとえ機能的に必要なくても、 張りぼてであっても「頭」を作ったほうが、そのロボットの普及はきっと速いはず。

形が機能を支配する

ダイナブックの発想、最初に形を決めて、それを使っている人の風景を描いて見せて、 まずはイメージから、風景から、形から入るやりかたというものは大切なんだと思う。

何かを本格的に普及させようと思ったら、だから「それがある風景」をまず浸透させるやりかた、 イメージボードや小説、映画みたいな物語を使って、まず形から入るやりかただとか、 「今ある風景」を見直して、そこにある動作セットを「ハック」して、何気ない日常の動作に、 新しい意味を付加するやりかたというのが、本来正しいのだと思う。

chumbyみたいな、 「画面がついた目覚まし時計」というやりかたは、だから未来があるような気がする。 お布団に寝っ転がって、目覚ましの文字盤みながらボタンを押すのは、日常の動作として、 多くの人に組み込まれているものだから。

文字盤が液晶画面に変わって、目覚まし時計を止めるためのボタンを「クリック」するたびに 画面が変わって、将来的にはたとえば、その目覚ましに携帯電話回線が組み込まれて、 ボタンをクリックするたびに、なにか有料のサービスにつながったりする。地味だけれど、 「目覚まし時計のボタンを押す」のはみんなの基本動作だから、「クリック」が積み上がると、 馬鹿に出来ないような気がする。

見やすい画面だとか、コンテンツの工夫を通じて「クリック」してもらうことを考えるのでなくて、 日常生活の動作セットを見直して、「ボタンを押す」風景を、別の機能で乗っ取るような考えかた。

変革というものは、形から始まる。

それがあることで、今より圧倒的にすばらしい生活の風景を物語るやりかた。あるいは、 今ある風景を「ハック」して、同じ動作に、全く違った意味とか機能を忍ばせるやりかた。

歯ブラシとかトイレットペーパー、洗面台の内側、目覚まし時計、冷蔵庫、 今ある風景の「いつもの動作」を見直して、それがいつから日常としてすり込まれたのか、 同じ動作セットを使うことでそこにどんな意味を割り込ませることが出来るのか、 部屋を眺めれば、たぶん何か見えてくる。