相手に刺される想像力

円滑な、最高には遠いかもしれないけれど、少なくとも無難ではある、「お互いに半歩だけ下がって、 丁寧語で当たり障りのない会話をする」関係というものは、人間関係の万能解なのだと思う。

こうした関係を作るために欠かせないのが「相手に刺されるかもしれない」という想像力であって、 お互いがこうした想像力を持ちながら、健全な相互不信を続けていければ、人間関係に関するトラブルは、恐らくはずいぶん減るんじゃないかと思う。

変な台本がある

世の中ではしばしば、強い側に立った人が、目の前にいる「弱い人」に対して、ひどく横柄に振る舞う。 下手すると、相手のほうが年上で、体格もよかったりするのに、立場の強い側に立った人は、 「あとからこの人に殴られるかもしれない」という可能性をしばしば無視して、必要以上に横柄になる。

弱い側の人もまた、同じ人間である以上、横柄な相手をぶん殴ることは決して難しいことではないのに、 どれだけ侮辱されても、ものすごい自制心でそれを抑えようとする。

社会には、強い側は立場以上に横柄に、弱い側は惨めに、徹底的に惨めに振る舞うように作られた、 見えない台本のようなものがある。お互いにどういうわけか、「相手がその台本を決して外さない」ということを、無条件に信頼している。

台本に対する留保のない信頼は、結果として社会の交渉コストを下げる。その利得は大きいのかもしれないけれど、 結果としてその信頼は、交渉の現場から、お互いに「刺されるかもしれない想像力」みたいなものを追放して、 強い側を不当に強く、弱い側を不当に弱く、お互いから半歩だけ引いた、穏やかな関係を遠ざけてしまう。

牛の生首にも意味がある

「革命しようよ」は、目標として遠すぎるし、革命を喰らった側は、それを不当なものとして認識する。革命で、お互いの関係は入れ替わるけれど、 恐らくは「台本」それ自体は引き継がれる。役どころを書き換えて、台本は生き延びて、いびつな人間関係は、むしろもっと悪くなる。

悪い状況に必要なのは、「お互いの役割を放棄しようよ」という啓蒙であって、田舎の市長選挙なんかだと、これが「血まみれの牛の生首」として、具現化されたりもする。

激戦区になっている田舎の選挙は、選挙の勝敗が生活に直結するから、お互いに相手を口汚く罵ったりすることは珍しくない。 恨みが行き着くところまで行くと、対立陣営の家の庭に、切ったばかりの牛の生首が放り込まれたりする。

もちろんそれは恫喝だけれど、誰がやったのかは分からないし、生首が放り込まれた家にしても、じゃあ何をすればいいのか、たいていは明示されない。 牛の生首は、恫喝であるのと同時に、うんと原始的な挨拶でもあって、「こんにちは、よろしくお願いします。お互い紳士的に行きましょう」というメッセージを、 「身内の誰かが刺されるかもしれない想像」を、お互いに喚起する役に立っているような気がする。

言葉でどれだけ理屈の通ったことを述べても伝わらないのに、牛の頭に何十本もの包丁を突き立てて、 それを黙って上司の机の上に置いておいたら伝わる何かというものがある。その空気感みたいなのは言葉にできないし、 電子の時代になってもなくならない。

人間関係というものは本来、たぶん洗練から一番遠い何かであって、紙に書かれた道徳を読むよりも、 牛の生首を杭に突き刺して、それを誰からも見えるところに置いておくほうが、人の振る舞いを「道徳的」なものにする役に立つのだと思う。

後ろ向きな努力が穏やかさを作る

弱い側を、惨めな立場へと縛り付ける台本は、人間関係をいびつなものにする。道徳の価値が絶対化されていく中で、 「運が悪かった人」は「不道徳な人」へと書き換えられて、「努力が足りない」人も、「チャレンジ精神に欠ける」人も、 どちらも等しく「悪い人間」と断罪されてしまう。

いびつな人間関係は、一方的にすり潰される側の誰かが、ある日「台本は守らなくてもいいんだ」と気がついたときに、一気に破綻する。

正義や道徳という、本来無くてもいい何かを土台にした人間関係は、破綻と同時に無力化するから、破綻はしばしば爆発を生んで、人間が本当に刺されたりする。

誠意や良心とは対極の、お互いが後ろ向きに、強い側は「卑怯な保身」に、弱い側は「卑劣な恫喝」に、お互いがそれを徹底することで、 「刺されるかもしれない」という想像力が保たれる。そうした想像が、結果として「穏やかでいい関係」を生む。

役割の受容というものを、誠意や美徳と言い換えるのは欺瞞であって、穏やかで無難な空気を作るためにこそ、 お互いがそれぞれの立場に応じた「努力」をしないといけないのだと思う。