ジェットコースターのパラドックス

もしかしたらパラドックスでも何でもなくて、「こうだよ」という、当然の説明があるのかもしれないのだけれど。

恐怖の使いかたについて。

ジェットコースターの怖さ

ジェットコースターのコースは怖いから、あえて恐怖を楽しみたい人たちがあれに乗る。

ジェットコースターのレールは、それでも上手く作られていて、乗客に恐怖を提供しつつ、理屈の上では絶対に脱線しないような構造になっている。

「脱線しない」という前提があったときに、恐怖が増すと、あの乗り物の楽しみかたが、より多彩になる。

ジェットコースターがより「怖く」なるほどに、叫ぶ人、あえて手を離してみせる人、しがみつく人、ジェットコースターの上であえて暴れてみせる人、 恐怖の表現だとか、楽しみかたに様々な個性が生まれて、状況は多彩へと発散していく。

一方で、たとえばジェットコースターの一番高い場所に、あえて平坦な、水平な一本道を用意して、そこだけ「安全レール」を外した状況を仮定する。

安全レールのないコースターは、下手すると脱線してしまうけれど、コースが平坦なら、それは単なるトロッコ列車と同じだから、よほど無茶をしない限り脱線はありえない。

ところがこんなコースを設定して、「ここは平坦ですが、だれか馬鹿が暴れると墜落します」なんて看板を出しておくと、異次元の怖さが生まれる。

恐らくみんな黙るだろうし、コースがちょっとでも不安定になったり、横風が吹いたりしたら、みんな固まって、コースターにしがみつく。

どちらにしても、ジェットコースターが提供するのは恐怖という刺激であって、安全に設計されたコースにしたって、 ジェットコースターの事故確率は決してゼロになるわけじゃないから、実際のところ「ジェットコースターで死ぬ確率」は、恐らくはそんなに変わらない。

変わらないはずなのに、乗客の振る舞いは、恐怖が増すと、一つのやりかたに収斂してしまう。

恐怖の失敗というものがある

  • イラク民主化をなんとか進めようと、米軍が必死になるほどに、イラクのテロリストが殺されるほどに、 イラク国民は「米軍出ていけ」で固まって、民主主義の多彩は遠くなる
  • 本の学校で、先生が「静かにしろ」なんて、どれだけ声高に怒鳴っても、むしろ子供はもっと暴れて、学級崩壊はおさまらない

何かの目的を達成するために、恐怖という道具を持ち出して、意図とは逆の結果がもたらされる。

これは「恐怖の失敗」であって、拡散と収斂、狙うものによってやりかたが異なるのだろうけれど、 同じ「恐怖」という刺激を集団に入力しても、やりかたによって、集団は発散することもあるし、一つに収斂することもある。

何がそうさせるのか、ジェットコースターに何かのヒントがある気がするのだけれど、今ひとつ一般化がやりにくい。