技術の欺瞞 広告の欺瞞

技術や企画、営業や広告、それぞれの職種には、たぶんそれぞれ持つべき 欺瞞のスタイルというものがある。 欺瞞を捨てた、全方向的な「よさ」を追求した先には、魅力的なプロダクトは生まれない。

「いい」製品と、魅力的な製品というものは異なっていて、商品の魅力というのは、 たぶん技術職と営業職の、欺瞞ベクトルの「ずれ」が作り出す。

Thinkpad を買った

新しいThinkPad を買った。自分みたいな素人には「速い」ということしか分からないし、 今使ってるぶんには何の不満も無いけれど、キーボードの印象がずいぶん変わった。

前使ってたA30 というモデルは、IBM 時代の製品。IBM が中国に買収されて、 「ThinkPad はもう終わりだ」とか言われる前、ThinkPad といえば質感の高い高級品という ブランドイメージがまだ残ってた頃。ノートパソコンはまだまだ高級品で、当時30万円近くした。

A30 は重くて固くて、キーボードを押した感覚も、しっかりしていながら粘るような、 たしかに自分は高級な製品使ってるんだな、と実感できるような感触。気に入ってたけれど、 打ち続けると結構疲れた。

今度買ったT61 は、もう4 世代ぐらい先に進んだ製品で、 薄いし軽いし、なんとなく「ありがたみ」に欠ける印象。

筐体の造りなんかはしっかりしているし、キーボードのしっかり感なんかは むしろ向上しているのだけれど、 キーを押した感触が何だかパシャパシャしていて、安いというか、ありがたみが薄いというか。

昔のThinkPad のほうが、キーを押したときの感触が滑らかで、わずかに重たい感覚。 今のキーボードはカサカサした、乾いた感触で、キーを押し下げる圧力が軽い。

「打っていて疲れない」という、キーボード本来の性能は、たぶん新型のほうが優れている気がする。 新しいThinkPad のキーボードは、軽く打てるししっかりしているし、メーカーの人達が 「改良しました」なんて言うとおり、道具としての使いやすさは、こちらのほうが上なんだろう。

新型は打ちやすくなったその代わり、何となく、自慢できる方向とは 乖離してしまった印象。道具として使いやすい、打ちやすいキーボードと、 誰か別の人に自慢して、その人から「これいいね」と言われるキーボードとは、 たぶん違うんだと思う。

新しいThinkPad は、だから道具としては十分満足して使っているんだけれど、 誰かに自慢したいとか、ものすごくいい物を買った充実感とか、そんなものは案外薄い。

スカイラインGTR のこと

日産が作ったスーパーカースカイラインGTR」を販売する人達は、あれを「いい車でしょう?」なんて 紹介してはいけないんだと思う。

今度のGTR は、開発した人のインタビューを読んでも「最高の車を目指しました」みたいなコメントが 並んで、それを売る人達もまた「いい車でしょう?」なんて。たしかにすごい性能の車なんだろうけれど、 何のゆがみも内包しない「よさ」という価値には、何だか魅力を感じない。

R32 型GTR が販売された頃の本を読むと、GTR を開発した人達は、 とにかく「レースに勝つ車」を作ろうとしていた印象。 誰も「よさ」なんか目指してなくて、当時のグループA 規約の範囲内で、 ほとんど反則に近いやりかたで、「勝つ」ことだけを想定していた。

あれを販売する人達も、想定外の化け物を送られて、 案外困ったのだと思う。「いい車でしょう?」なんて無批判に言い切るには、 当時のスカイラインは何だか不気味な印象。「うちの技術屋がとんでもない怪物作ってしまいまして…」 なんて売りかたするしかないような。

結果として、R32 は大成功したけれど、あとに続いたスカイラインは、 R32 よりも性能はよかったにもかかわらず、先代を越える魅力で語られらなった。 技術職と営業職の「ずれ」というものが、R32の魅力を生み出していたのだと思う。

欺瞞が魅力を作り出す

魅力というのはたぶん、製品の「よさ」が事後的に作り出すのではなくて、 製品を開発した人と、それを販売する人とが持つ欺瞞のベクトルがずれた場所に発生する。

思ったこと素直に伝える、欺瞞のないメッセージには力が無い。 訴える力が強い人達は、たぶんそれぞれ独自に作り出した欺瞞のスタイルを持っていて、 ある程度意識的に、それを運用している。

そもそも欺瞞が無かったり、技術者と営業との欺瞞ベクトルが一致してしまうと、 そのプロダクトは「つまらなく」なる。 それがたとえ「いい製品」であったとしても、つまらない製品は、自慢できない。

技術者と営業職と、大雑把にお仕事を分けると、 それぞれの職種に要求される「欺瞞の使いこなしかた」は 異なっていて、その異なりかたも、メーカーとか、人種で共有され、 引き継がれるべき文化なんだと思う。

日本人なら、技術者は常に「完成度はまだ中途で、まだ改良の余地がある」と言わなきゃいけないし、 それを販売する人達は、「うちの技術馬鹿どもが暴走しまして…」と顧客に謝らないといけない。 たとえどんなにいい製品でも、日本人は「いい製品でしょう? 」なんて言っちゃいけない。

アメリカの技術者なんかは、むしろ何作っても「これが自分の考える最高の製品だ」なんて 胸張るし、それを売る人達は、額に青筋浮かべながら、 苦虫噛み潰した笑顔で「いい車でしょう ? 」と言わなきゃいけない。

シェルビー・マスタングとか、ダッジ・チャージャーとか、 何だかもう、乗るだけで頭悪くなりそうで、ものすごく魅力的。技術者が全方向的な馬鹿車作って、 営業の人が、それを何の衒いもなく「すばらしい車ができました」と言い切るのは、 アメリカ車にだけ許された欺瞞のスタイル。

性能は、もちろんスカイラインGTR のほうが上なんだろうけれど、 こんなアメリカンスポーツが好きな人達にとっては、馬鹿みたいな排気量であったり、 燃費の悪さとか、音のうるささとかそんなものこそが魅力。たぶん10年たっても同じ車を乗り回して、 やっぱり「これ馬鹿でしょう?」なんて、みんなに自慢してそう。 限定生産品だから手が出ないけれど、乗れるものならものすごく欲しい。

トヨタのレクサスなんかは、やっぱりこのへん間違ってるんだと思う。

トヨタの技術者が全力注ぎ込んでるのは、やっぱりベースになった乗用車のほうであって、 レクサスで売ってるのは、それをきれいに仕上げて値段を上げた車。

「限られた予算に機能を詰め込む」のはまさに技術で、それは日本のお家芸だけれど、 「浮かせたお金で「きれい」を乗っける」のは、何となく技術屋としてかっこよく見えなくて、 中の人達もたぶん、「暴走する技術者」としてでなく、 「企画の人に言われるがままに仕事しました」というイメージ。

レクサスの販売店は、たしかに丁寧。非の打ち所の無いいい車を並べて、「いい車でしょう ?」なんて。 「いい」物を「いい」と表現することは、もちろん全然間違いではないんだけれど、 欺瞞の無い言葉は響かない。予定通りに作った「いい」車というのは、 「既製品を薄めて膨らませて、200 万円上乗せしてみました」なんて思惑が透けて、 なんだかつまらない。

トヨタ自動車には、電気レクサスのエンジンをヴィッツのボディに押し込んだ 「リアルチョロ Q」開発してほしい。そんな動く危険物を力ずくで販売して、 「いい車でしょう?」 なんてやってくれたら、もう一生ついていくから。