勝手に正しくなっていく教科書を作りたい

たぶんどこの業界でも同じなんだろうけれど、そこで働いていくために必要な知識というのは、 ちょうど樹木のような形をしている。知識の体系を形作るために、あるいは全体の見通しをよくするために、 幹だとか、枝ぶりというものが絶対に必要なんだけれど、「薬草」として、実際に役に立つのは、 恐らく「葉っぱ」の部分なのだと思う。

幹から葉っぱまで、知識を樹木ごと丸呑みできれば、その人は業界を理解した、ということに なるのだろうけれど、それをやるのは難しい。

内科だと、たとえば「ハリソン内科学」みたいな成書を一冊、隅から隅まで理解できれば、 たぶんその人に文句を言う医師は相当に少なくなるけれど、世の中にはたぶん、 ハリソン内科学の原著を読み通した人は、そもそもそんなに多くない。

凡人に理解できる量というのは限られて、だから世の中には、神様みたいにあがめられる大きな本とは別に、 小さくまとまった、知識の切り売りを試みた本がたくさん売られる。

必要なのは「薬草」であって、薬効成分は「葉っぱ」に含まれているわけだから、 小さな本というのは必然的に「薬草のつまった袋」みたいなものを目指さないとおかしいんだけれど、 日本で出版されている研修医向けの教科書は、どういうわけだか「葉っぱ」がほとんど残っていない、 幹があって、枝があって、枝ぶりだけは立派な、樹木の骨格標本みたいなものばっかり。

ワシントンマニュアルの頃

恐らくは「教科書で何かを学ぶ」という文化自体、自分たちの業界でそれが当たり前になったのは、 せいぜいここ10年ぐらいなんだと思う。

自分が研修した病院では、当時「ワシントンマニュアル」という本が研修医向けの教科書として 推薦されていて、みんな読めるわけもないのに英語版を買わされて、あとからこっそり日本語版を買っているのを 見つかると、上の先生がたから怒られた。

当時からもう、聖路加国際病院だとか、虎ノ門病院みたいな大きな病院では、研修医向けの、病院の名前を冠した 教科書を出版していた。あれは本当にうらやましかったし、知識がコンパクトにまとまっていて読みやすかったんだけれど、 「それを使って何かやる」という場面は、少なかった。

そうした教科書は分かりやすくて、知識の見通しに優れていて、そういうのを読むと、 なんだか自分が上等な人間になれたような、頭がよくなったような、そんな気分になれるんだけれど、 できることはあんまり変わらない。

日本語の教科書は、最後の「詰め」を踏み込んでくれなくて、たとえば「○○療法が行われることがある」だとか、 「免疫抑制剤の使用を考慮する」だとか。知識を得て、それを考慮するその段階に至って、 教科書には「考慮する」としか書かれていないから、最後の最後は、現場の判断。上の先生に やり方を尋ねたり、あるいはあやふやな英語の知識で「ワシントンマニュアル」を読んで、 そこに記載されているやりかたに従ってみたり。

ワシントンマニュアルは、研修医が読むには厚すぎて、おまけに全部英語だから、総論部分を読むのが 本当におっくうで、当時はもう、あの本が嫌いで嫌いでしょうがなかったんだけれど、実際問題、 使えるもの、医学知識の「葉っぱ」部分をきちんと書いてある教科書は、当時も今も、あれぐらいしかなかった。

証拠中心主義の時代

あらゆる意見に論文レベルでの証拠を求めるEBM の時代になって、状況はむしろ 悪くなったような気がする。

EBMに基づいた」を売りにする教科書は増えたし、昔に比べれば、教科書は少しだけ 安くなって、図版も増えて、日本語の教科書は読みやすくはなったのだけれど、 「○○療法が行われることがある」だとか、「○○を考慮する」みたいな、 踏み込みをためらう記載は増えた。

一人の人間が全部書くのは無理だから、今は分担執筆が主流みたいだけれど、 何か書いて、それを裏付ける論文を探しても、ならばその論文が本当に正しいことを 補償してくれる論文だとか、あるいは自分が書いた知識と、正反対のことを主張している 論文が本当にないのかどうか、個人でそれを調べるのは難しい。

難しいし、分担執筆には締め切りがあって、たいていの場合、みんな締め切り直前になってから 調べはじめるから、時間がなくて、踏み込めない。

教科書はだから、正しいし、見通しがいいんだけれど、役に立たない。

論文で磨き立てられた仏壇みたいな教科書がある。

見た目は立派で、表面は「証拠」で磨き立てられてぴかぴかなんだけれど、仏壇をあけても、 引き出しを探しても、「薬草」なんて一枚も入ってない。引き出しの隅っこに紙が入ってて、 そこにはただ一行、「治療は現場の判断で」なんて書かれてる。

教科書作りたい

「研修医向けの簡易な医学教科書」という分野に必要なのは「切り貼り」の能力であって、 画期的な発見をする能力だとか、論文分野ですごい業績を上げるだけの粘り強さだとか、 自分には欠けていた、そういう資質がなくてもどうにかなる。

「教科書を作る」なんて言っても、やっていることはだから切り貼りで、 すでに発売されている、研修医向けの日本語教科書を何冊か、面白そうなところを 抜き書きして、それをまとめて一冊にして、何か大きな教科書、 自分だったら「Current Medical Diagnosis and Treatment」でその内容を 検証しているだけなんだけれど、「この文章は面白い」なんて切り抜いた文章が、 結局のところ、英語の教科書をそのまんま和訳しただけだったりしている箇所がいくつも見つかる。 今の時代になっても、良い日本語教科書というものは、要するに良い翻訳なんだな、なんて思う。

海外の教科書は、それを書く人が持っている「葉っぱ」を見せるために教科書を書いているところがある。 まずは「ところで俺の葉っぱを見てくれ。。コイツをどう思う?」なんて筆者の思いがあって、 自分の意見を補強するために、あちこちから医学論文が引っ張られる。意見があって、それに基づいた 処方があって、それを裏打ちするための論文があるから、役に立つ。

分担執筆された日本語教科書は、論文が、クリスマスツリーの飾りみたいに使われているように 思えるときがある。有名な論文が、見通しのいい知識体系にぶら下げられて、それはたしかにきれいなんだけれど、 葉っぱが邪魔だからなのか、現場で使える知識はきれいに除かれて、そこは「現場の判断」に任される。

恐らくは現場で働く誰もが持っていて、業界全体に散逸しているであろう「葉っぱ」を収集したいなと思う。

今書いているものは、ツッコミに対する柔軟性が高くなることを意図して作ったから、 読んだ誰かが「ここがダメだよ」なんて感想抱いたとして、そういうお話しを吸収して、 訂正版をかけていければ、進歩する。

多数決で「勝手に面白くなっていく小説」なんてものを作るのは厳しいけれど、 「勝手に正しくなっていく、簡易な内科入門書」なら、大元の知識は内科の成書一冊で、 あとは「創造」というよりも順列組み合わせの領域だから、それができる可能性は高いと思う。

少部数、高頻度で出版を繰り返す形をとって、裏表紙に「私はたいていここにつながってます」なんて、 Twitter のアドレスを書いておいて、買ってくれた人とリアルタイムでディスカッションしながら、 「次の版ではそこを改訂します。2週間後に出ます」なんてやれたら、きっと面白い。 本当はオープンソースにして、各病院ごとのローカル版とか作れたらいいんだけれど。

少部数出版が高価であること、Amazon みたいな決済システムに素人が参入するのが難しいこと、 なによりも、今作っているものが、商業クオリティにはまだまだ遠すぎて、 やらなきゃならないことはたくさんあるんだけれど、今はこんな場所を目指してる。