モデルを作って理解する

理解3態。

  • 概念の周辺に生まれる無数の因果関係の中から、相関関係になっているものを見出す
  • 検証可能な小さな概念を積み上げて、大きな概念全体の理解を目指す
  • 概念をモデル化して、モデル同士の生き残り競争を通じて正しいモデルを見出す

群盲象を撫でる

「象」を理解しようと思っても、実物がいない、あるいは大きすぎて見えないときはこんなやりかた。

  • 象の足あととか、糞を調べたりしてどんな生き物なのか、そもそも象とは何なのかを推定する
  • 象の爪や毛、あるいは組織なんかを詳細に調べて、 それが集まるとどんな生き物になるのかを想像する

いろんな切り口から「象」を論じて、みんな「象という現象」の権威になる。

答えの分からない問題には利権がある。実物が見えないなら答えは絶対出なくて、 権威はみんな権威のまま。格闘技世界最強がいつまでたっても決まらないのと一緒で、 答えの出た問題は、もうご飯の種を生み出さない。

「象」を理解するもうひとつの方法が、モデル化。

「4本足で歩く動物を仮定すれば、「象という現象」は説明できるぞ」

モデル化は観察を伴わない、内的な現象。誰かがいきなり、こんなモデルを思いつく。

「象は4本足で歩く生き物みたいだ」というモデルは、現実世界でおきていることをよく説明する。 大部分の人にとっては、それは有用な情報になるけれど、 解答不可能問題の利権にすがる人達にとって、真理の解明というのは迷惑そのもの。

「すばらしい発想だ」と、モデルの提唱者を賞賛する声が上がる一方で、 それを絶対に認めたくない「権威」もいるはず。

迷惑な現状説明モデル

茂木健一郎を読んだら負けだと思ってる。

医師の仕事と脳科学なんてほとんど接点は無いけれど、 自分の興味はけっこう重なる。

自分の文章作法というのは、目の見えない人が象を想像するやりかたそのもの。

ある日は足を触ったり、別の日には尻尾の毛を拾ってみたりして、断片的な情報から 電波スレスレの発想を紡ぐ。書いたものが正しいのかどうかは全く分からないけれど、 そこそこ面白い文章を作れる。

脳の話題では「クオリア」という単語はもはや普通名詞だけれど、 あの発想を自分が受け入れてしまうと、もう「足が6本ある象」とか、「鼻だけで歩く象」みたいな 狂った発想で固めた文章は書けなくなってしまって、「4本足の生き物」という枠から 抜けられなくなってしまう。

正しいのが大切なのは当たりまえなんだけれど、うちみたいなblog でも、 文章書いて、いろんな人から反応をいただいてという「真実を知らないことで得られる利権」がある。 正しいことを知って得られるものと、それを知って失うものとのバランスで、読む気になれない。

持ってるんだけれど。

こんな辺境のweb 世界のセコい話じゃなくても、たぶん世界のいろんな場所で、 「正しい説明モデルを受け入れるジレンマ」みたいなものはきっとおきている。

破壊的な進歩をもたらす発想

下らないジレンマなんて放り投げて、みんなが必死の思いで食いついて、 瞬く間に世界に広がる発想というのがたまにある。

複雑系やネットワーク科学の話題なんかもそうだし、「外務省のラスプーチン佐藤優氏が モデル化して見せた、外務省と国会との関係なんかも、たぶんそうなる気がする。

みんながすぐに受け入れる発想というのは、そこから様々な「未来」が想像できるもの。 あるいは、「そのモデルに取り残された悲惨な自分」の姿がありありと想像できる、 そんなモデル。

ネットワーク科学なんて、「クオリア」の概念以上に本業に関係ない話題だけれど、 何年か前にこれが話題になって、ネットワークの生み出す未来モデルが毎日のように 提唱されるようになったとき、「わくわくする」気持ちよりも、一種の「恐怖」にかられて、 入門書を何冊も読んだ。

概念をうまく説明する発想というものは、「知ることによるメリット」を確実にもたらす。 破壊的なイノベーションをもたらす発想というのは、むしろ「知らないことによるデメリット」を 確実にもたらすから、正しいのかどうかの検証はさておいて、一気に広がる。

破壊的な発想から取り残された人は仕事を失う。

それまでの電子化業界では、「OCRの誤変換はちゃんと修正しないと売り物にならない」 という常識がありました。ところが、Amazon社は、 「OCRかけっぱ」で十分OKな利用方法を思いついたのです。 bookscanner記 - 証人喚問後半

本の電子化という分野では、どれだけ正確にOCR を行えるのかが技術競争みたいな ところがあって、誤変換を含んだ電子化には意味が無いと考えられてきたのだそうだ。

ところがAmazon には本のインデックスがすでにあったので、 誤変換を含んだOCR データでも十分実用になったため、 今まで1冊当たり数百ドルかかっていた電子化の価格を、「1ドル」にまで下げてしまったのだという。

PDAにテキストを載せるときなんかのことを考えると、 「確実なOCR」を行った文章にはまだまだ需要はあるのだろうけれど、 もはやそれにかけられるコストは激減。PDAだって容量増えてるし、たぶん 「不確実なOCR」登場以後に何ができるのかを考えていない人は、置いていかれてしまうのだろう。

よいものを生む概念モデルが正しいとは限らない

無数の相関関係の中から因果を見出すやりかたと、 顕微鏡的な因果を積み重ねて、大きな因果関係を組み立てるやりかたと。

ごく大雑把に「文系/理系」で区切られるような、これらは伝統的な学問の方法。

学者じゃない、エンジニアの人達というのは、 とりあえず同じように動くモデルを作ってしまって、 それから実世界で何がおきているのかを考える。

20年ぐらい前、MIT のエンジニアは、「知性とは何か」という問題に対する解答として、 単純な回路だけで「知性を持ったみたいに動く」昆虫ロボットを作り出した。

人工知能の可能性を長年論じてきた人達は、それを見て「ただの玩具だ」と笑ったのだという。

昆虫ロボの思考回路は極めて単純なのに、それは本物の昆虫みたいに状況を判断して、 自律的に移動する。脳の解剖を研究する人達も、生態学者にもできなかったこと。

みんな笑ったけれど、結局その考えかたはどんどん事業化されて、 いろんな未来を生み出しつつある。

昆虫ロボモデルみたいな、ごく単純な判断回路の蓄積の 延長に「知性」が生まれるのか、それともどこかで越えられない断絶があるのか。

まだ分からないけれど、今まで「知能とは何か」を考えて、 無数の論文を作ってきた人達は今追い込まれていると思うし、 昆虫ロボの考えかたに対抗する、別の「知性モデル」を作って対抗できないのならば、 やがて滅んでしまうのだろう。

鳥人間コンテスト」とか、「ロボカップ」みたいな競争にはすごく期待をしてしまう。

何かのテーマがあって、みんな思い思いの解釈モデルを持ち込んで、 一種の生存競争を行って、「誰がそのテーマを一番うまく説明できるのか」が決まる、そんなやりかた。

最高の「性能」を発揮したモデルと、最高の「未来」を見せてくれたモデルとは 必ずしも一致しないかもしれないけれど、たぶん両方に意味はある。 資本というのは常に技術の差分に集中して、 維持や継続という行為は買い叩かれるだけだから。

フラフラといろんな分野をさまよっては怪しげなアナロジーを考えてみたり、 魔術とか密教みたいな分野の常識を、あえて科学の言葉でしゃべってみたり。

「当たり」を引いたことなんてないんだけれど、 みんなの「アハ体験」を持ちよって競争するネット世界というのは、 これから先何かがおきる最先端になり続けるんじゃないかと思う。