対話の論理と劇場の論理

  • 立場の違いによって最適な議論手法は異なる
  • 立場の強い側は対話的な、立場の弱い側は劇場的な議論手法が最善手
  • 対話の論理は原因を人間に求める。「悪い人間は誰か」「どちらが悪なのか」が争点になる
  • 場の論理は原因を構造に求める。問題は悪人が生じる「構造」であって、人間それ自体ではないと考える
  • 対話の論理では「正義か悪か」が大切なのに対して、劇場の立場は「悪」であることを受け入れるところから議論が始まる
  • 劇場論理を行使する者は、まず悪であることを容認して、その上で悪役を作らざるを得ないシナリオの問題点を指摘する
  • 片方が対話の論理を取り、片方が劇場の論理を取った議論は全く噛み合わないか、泥仕合になる
  • 相手を自分のフィールドに引きずり込むところから議論は始まっている

強者の論理=対話

強い立場の人、あるいは正義の側が用いるのが対話の論理。

強い立場の人達は、社会の構造というものは、 自分達を強く保つのに有利に働いているから、 できればそれを壊したくないと考える。

社会に何か問題がおきたとき、「構造」に手をつけないで問題だけを解決するのにいちばん 簡単な方法は、「誰かのせいにする」こと。

問題をおこしたのは、あくまでもその人個人の資質が足りなかったり、 その人が「悪」だったからであって、社会の構造自体には何の問題もない。

自らの正義を保証してくれるのは、社会の構造。社会を構成している大勢の人、「みんな」 の理性にはとりあえず眠っていてもらって、悪役を振られた誰かにだけ犠牲になってもらう。 マスコミであったり、司法であったり。世の中の正義を維持する側の人達が使っている、 そんなやりかた。

  • レッテル―攻撃対象となる人にネガティブなイメージを押し付ける。相手を「男性」でなく「男」と 表現したり、攻撃対象が「やっちゃった」「最悪」と発言していたなどと報道したりする
  • 普遍化―多くの人が普遍的価値を認めているものを利用する。「命は地球より大事」「健康は国民の権利」とか。 異を唱える連中は絶対悪になる
  • 権威―多くの人が認めやすい権威を味方につける。「テロリストがお父さんを殺したんだ」 と子供に泣いて訴えさせたり、原油まみれの水鳥を「イラクの犯罪」として公開したり。 「権威」は大人である必要はなく、人間である必要すらない
  • 平凡化―正義の側に親近感を持たせる。 「遺族の目線で捜査をしていきます」と検察が宣言するのはこれ。 「捜査」が「操作」になったところで、「庶民の味方」ならしょうがない
  • バンドワゴン―その事柄が世の中の権勢であるように宣伝する。みのさんの得意技

対話ルールに必要なのが、わかりやすい悪役の存在。

悪役の中から「正義に目覚めた例外」が出てくることは、正義にとっては必ずしも成功を意味しない。 こうした例外は味方になる反面、「悪の中にも善がいる」というシナリオを駆動してしまい、 善悪の2元論的対立というシンプルな物語を分かりにくくする。

国家同士の戦争では、たとえ敵対関係にあっても、敵国民全員を例外なく憎むことはたいてい 不可能であるため、 敵国の指導者という「顔の見える悪役」を用意して、 その人格の醜さを強調することで「例外」を国民から隠す。

隠された「例外」は無かったものとして処理される。

弱者の戦略=劇場型論理

対話型論理にはめられると、立場が弱い側が勝つ見込みがほとんどなくなる。 弱い側が生存率を上げようと思ったら、相手の論理から脱出することを考えないといけない。

劇場型の論理というのは、「悪」が生じた原因を、人ではなく「構造」にあると訴えるやりかた。

構造主義的な立場は、立場の善悪と、人間の善悪とを区別して考える。

どちらか一方の立場を「悪である」と正義が認定するのも、その立場を受け入れるのも、 社会の構造がそう決めたからであって、その人自身が悪いのかどうかは、全く別問題。

社会の構造自体に問題や矛盾があるからこそ、叩く側と叩かれる側とが生じる。 問題なのは悪役が必要なシナリオの不備であって、その人自身ではない

劇場型論理では、議論の場には3人、「悪役」として叩かれる側と、「正義」の立場から叩く側、 そして、両者を上から観察する「観客」との3つの立場の人がいると考える。

  • 対話論理は、観客になるべく眠ってもらっていて、その間に悪役を叩く
  • 劇場論理は、「役」としての悪の立場を受け入れて、その上で観客に訴え、 台本の不備に気がついてもらう
  • 物語の台本こそが、正義を正義たらしめているから、 対話論理を支持する側は、台本が書き変えられるのを好まない

立場の弱い側は、どんな戦略を取ったところで勝率は低いのだけれど、 対話ルールから劇場ルールへと転換することで、少しだけ生存確率を上げられる。

独裁国家の秘密警察は、政治犯政治犯罪者として逮捕することは避けるのだという。

政治犯罪者が政治犯として逮捕されるというのは、そのこと自体が政治犯の勝利。 秘密警察はそれが分かっているから、政治犯を万引きとか痴漢とか、もっと矮小な犯罪で検挙して、 その政治犯の人格を貶め、対話ルール内での勝負を続けようとする。

福島県の事例では、検察側はこんなコメントを発表した。

我々としても医療関係者が日夜困難な症例に取り組まれていることは十分認識している。 しかし、今回の事件は、医師に課せられた最低限の注意義務を怠ったもので、 被告の刑事責任を問わなければならないと判断した

このコメントは、「我々は対話ルールで物事を進めるから、 みんなバックグラウンドの構造に立ち入るような真似をしないでね」 という検察サイドからの牽制に思える。

のび太と次元とゴルゴの決闘

劇場型の勝負を仕掛けるときには、戦わないことすら勝利戦略として機能しうる。

  1. のび太と次元とゴルゴ13 がピストルで決闘する
  2. のび太の命中率は 30% 、次元は 60%、ゴルゴ13 が 100%
  3. 弾を撃つ順番はのび太、次元、ゴルゴの順
  4. 生存確率を最大にするには、のび太は誰を狙うべきか?

最適戦略は、のび太「パス」すること。空に向かって撃つとか、狙わないとか。

  • もしも次元を射殺すると、のび太は100% の確率で ゴルゴに殺される
  • ゴルゴの射殺に成功すると、のび太は60% の確率で次元に殺される
  • ゴルゴと次元の最適戦略は、お互い「のび太以外を狙う」ことだから、初弾を外せばお互い殺しあう

初弾を外したとき、のび太の生存確率は46% 程度まで上昇しうるという。

対話ルールというのは、決闘場にのび太と次元しかいない状態。 のび太がこの世界で生き残ることは難しい。

うまく理由を見つけて、ゴルゴ13を決闘に引っ張り込むことができるなら、 ルールはそれだけ複雑になって、のび太の生存確率が上がるケースも出てくる(のび太が何人いればゴルゴ13に勝てるか?より)。

のび太―次元―ゴルゴ13 」の関係というのは、 たとえば「医療―司法―国民」であったり。自分がどの立場なのか。引っ張り込むべき「上」が 実体として存在するのか。状況によって取るべき戦略は変わってくる。

我々はマスコミもまた話し合えば分かり会えると信じている。 ○木記者ですら、その立場上暴走するしか選択の余地がなかったのだと思う。 ならば、記者の暴走を許すような甘い監視体制、 真実を曲げてまでも新聞者に売上げ強要する、「広告主-新聞社」の構造には、 改善すべき問題点は無いのか?

こんなやりかた。弱さを認めて、悪である立場をとりあえず受け入れて、 その上でもっと「上」の人達、新聞社なら広告主の人達を議論の場に引っ張りこんで、 医療者と新聞社とどちらが悪いのか、それを一緒に考えてもらう。

福島県の裁判では、事実関係の応酬の後、弁護側が「憲法38条と医師法21条の違法性について」 という議論を展開したらしい。

これは「対話ルール」から「劇場ルール」へと議論のルールを変更しようという動きで、 検察側はこれに対して「弁護人の陳述は本件と全く関係ない事柄です」という反論を行い、 議論のルールが劇場型に流れるのを阻止しようとしている。

自分達にできること

劇場型の戦略は、話がどんどん大きくなるから、問題解決までに時間がかかる。

一度切り出した話題は引っ込められないし、「観客からどう見られるか」が とても大切になるから、一度劇場戦略を開始すると、 相手側とは妥協できなくなってしまう。泥沼化必至。初回から弁護側が憲法問題に 話を振ってきたというのは、泥沼に足を踏み出す覚悟をみんな固めてきたという 意思表示なんだろう。

これは実存主義構造主義との争い。

論争の中心を「人間」から「構造」へと変更するのは難しくて、 「構造」の矛盾を誰にでも分かりやすく解説することと、 「人間」の話題をなるべく小さく維持することと、両方が必要。

色あせた事実に判断の色をつけて、構造の問題点を人間中心に再構築するのがマスコミのやりかた。

マスコミの描いた絵から余計な色を抜いて、事実が生まれた構造を分かりやすく広めることが 医療者側の戦略で、弁護側の人たちはそんなプランを持っているはず。

外野ができることというのは、弁護側の「構造解析結果」が公開されるまで、あんまり騒がないこと。

相手の人格攻撃とか、「国民に思いしらせる」とか、そんな騒ぎかたというのは「対話ルール」を 進める人達にとってのプラスにこそなれ、医療者側には利益がない。

医療者側が劇場論理で戦うことを決めていて、それを支持する立場をとろうと思ったならば、 みんなが常に「観客」というものを意識しながら行動することと、 長期戦に対しての支援を止めないことだと思う。

分析と発信とは、専門の先生方がきっとこれから進めていくはず。進めてくれないと困る。 誰もが納得するような「構造の矛盾」が発信できないならば、そもそも劇場型戦略なんて まったく機能しない。

今自分にできるのは、だまって寄付を続けることぐらいだろうか…。

追記:「ものすごく恥ずかしいことに完璧に間違っている」「頭使おうよ!!」という批判をいただきました。非常に真摯に書かれている文章で、本当にありがたいのですが、私の限界なのでしょう、残念ながら後半部分がよく分かりませんでした。読者の方は、ぜひともリンク先を一緒に見ていただき、判断をしていただきたいと思います。