父親はどこへいった

悪い話を切り出すのは難しい。

病名がちゃんと分かっていて、悪い予後が避けようもないような病気であれば まだ何とかなるけれど、急変の時なんかは最悪。

一体何がおきたのか。他の医者ならまだ何とかなったんじゃないか。

患者さんの家族は絶対にそう疑っているし、なによりも主治医だってそう思ってる。

理不尽な結果に対するこの怒りをどこへ持っていけばいいのか? 「目の前の主治医は?

この考えかたは全く正しくて、たしかに主治医が無能なのが 一番いけないんだけれど、医療者側としてはとても困る。

誰か「上の人」が現れて、この状況を何とかしてくれないものか。

患者さんを治療するところまでは技術だけれど、 人間関係を何とかするのは無理。結局神頼みだ。

最初は女神様から始まった

宗教が始まった最初の頃は、女神信仰が多かったのだそうだ。

頼めば何でも与えてくれる、現世利益の神様。

人が作る集団が小さくて、産業なんて狩猟ぐらいしかなかった頃は、 多神教的で、偶像崇拝、動物神崇拝を行う自然宗教が当たり前だった。

文明ができて、多くの人が集まるようになると、理不尽なことが 多く目に付くようになる。

農作物の不作。洪水や日照りなどの異常気象。仲間の死。

神様を恨んだところで何もしてくれないけれど、その頃には 宗教の「便利さ」にはみんな気がついていたから、神様の形は変化した。

女神様退場。与えてもらう宗教から試練に耐える宗教へ。

信者に禁欲と試練を強いる父権宗教では、 人間が神に要求するのではなくて、神が人間に要求する。

母なる神が豊穣を与えてくれるのに対して、父なる神は苦難を与える。

何ももらえず、試練に耐えなくてはいけない代わりに、 それに耐えた人は次の世界での幸福を約束される。

何かごまかされているように見えるけれど、神様なんてそんなもんだと思っていれば、 「試練を与える神様」という存在は、案外納得できる。

医療父権主義

パターナリズム、医療父権主義という昔からの医者の立場は、 患者さんが急変したときにはうまくない。

絶対に良好な経過で治る人ならば、「神様は俺様だ」という立場はとてもうまくいく。

ところが、「俺が神様」的な立場は、失敗したときに後戻りができない。

神様を名乗っておいて、いまさらうまくいかないから「人間宣言」しても、 誰も納得するわけがない。

父権者の下の仲間という立場

望ましいのは、患者さんの家族の誰かに「父なる神」になってもらって、 医者はその参謀という立場だ。

問題なのは、「誰が」「どうやって」父権を任命するのかという問題。

子供の親なら誰でも父親になれるけれど、理不尽さを受容、あるいは家族に要求して、 「次」を約束してくれる父権を持った人は、そうはいない。

「昔の父親は強かった」なんていう話はよく聞かれるけれど、 昔と今とで何が違ったのかというと、ムンテラの時に集まる人の数だと思う。

大きな家族の怖さと優しさ

儒教思想の強い某国の人達とか、某田舎の方の患者さんの家族との会話は大変だ。

もう人が集まる集まる。10人とか、当たり前のように人が来る。

人の目線というのは、集まっただけ力を持つ。

10人もの人から見つめられると、着なれた白衣がやけに薄く感じたりする。

急変の時なんかは、修羅場。

何人も集まると、必ずといっていいほど「一族の若者」が遅れて来て、医者の胸ぐらをつかむ。 つかまれたり、怒鳴られたり。最悪パンチが入ったり。

医者と、若者と、一族の中の偉い人と。

  • 医者を吊るし上げることで、若者は遅刻の謝罪と患者への思いを表現する
  • 怒る若者をなだめることで、偉い人は若者を赦し、権威を強化する
  • 医者は全面的にやられ損だけれど、ここはがまんする

人数の多い家族を相手にするのは大変だけれど、たいていの場合は「父権を持った偉い人」 が決まっているから、やりやすいとも言える。

大きな家族の中の偉い人は、それはもう主治医なんて比べ物にならないぐらいに偉いから、 争いがおきない。

「偉い人」を見つけておいて、その人に主治医の恭順の意思をちゃんと伝えられれば、 患者さんが理不尽なことになったとしても、若者に吊るし上げられるだけですむ。

小さな家族は争いがおきる

小さな家族ではこうはいかない。

年長の人、あるいは家族の中に父親がいたところで、その人が「父権」を持っているとは限らない。

理不尽な思いをした人は、それを受け止めてくれる権威を探す。

医者と年長者。どっちが一番偉いのか。

人数が少なくて、グループの中の年長者に十分な権威が集まっていないときには、 主治医と年長者との間に「権威の争い」がおきる。

家長がみんなに権威を示すためには、医者に勝たなくてはならない。

最初から協調の線が潰れているから、どうしても対立せざるを得なくなり、 落としどころが作れない。

対立して、議論に医者が勝ったところで、みんなの理不尽な思いは消えない。

ボトムアップで生まれる父権

父権というのは、誰かから与えられるものではなくて、集団の中に自然発生するものだ。

  1. 理不尽なことがおきたとき、誰もがその理由を探す
  2. 理不尽なことには理由なんかない
  3. 理由のない状態というのは居心地が悪いから、無いなら自分達で作る

大きな人数が集まって、その集団の感じる「理不尽さ」がある閾値を越えたとき、 その理不尽さを受け止めるために「父権者」が誕生する。

ナッシュ均衡からパレート最適へ。

理不尽さを解消するには、個人個人がバラバラにやってたんじゃ埒があかない。

父権者は、みんなの思いを受け止める、「集団の理性」の体現者 として、「みんな」の上に君臨する。

主治医の権威と父権の対立

主治医の権威というのは、「お上」から与えてもらったものだ。

ボトムアップで生まれた権威と、トップダウンで生まれた権威。 2つの権威の関係は、医師と患者との関係を大きく変える。

  • 十分な人数がいて、その人達の尊敬の念が父権者に十分集まれば、 主治医という異物も父権者の下に組み込んでもらえる
  • 数が少なくて、主治医と父権者との力関係がはっきりするだけの権威が集められないと、 主治医と父権者との間の対立が発生してしまう。

父権の大きさは足し算に従う。絶対的な人数と、一人一人が父権者に信託する「権威の量」とが、 その大きさを決める。

核家族化した現在、家族を集めたって、集まる人数は知れている。

父権者のいない家族と、父権者を求めておどおどする主治医。対立は避けられない。

父と子と情報開示

「父権者」に出会う機会はますます減っている。

今はネットワークの時代だから、ひとつの「理不尽さ」に集まる人の数は、 実は昔よりもはるかに多くなっているのだけれど、 誰もが忙しいからその場には集まってこない。

単にナースルームに集まって、話を聞くだけ。

それだけのことなんだけれど、 それでも現場の持つ情報の量というのは大きくて、馬鹿にできない。

情報の少ない人は、遅れてきた若者と同じ。

医者を吊るし上げることでしか集団に参加できないから、対立は深まるばかり。

「父」の復活を果たすために必要なのは、みんなの情報へのアクセスを公平にして、 「仮想的な大家族」を形成することだと思う。

何もかも隠さずに、こちらの情報をどんどん流す。

もっている情報はとりあえず公開するのは当たり前として、主治医がそれを見てどう解釈しているのか。 検査から分かること。分からないこと。成功する自信はあるのか。失敗するとしたら、次はどうするのか。

とりあえず持っているものや思考のプロセスといった物は全部公開して、 あとは相手集団の中に立ち上がってくるであろう「父権者」の理性を信じる。

相手家族との駆け引きは、とりあえず「見せて」から。

見せることを武器にする

情報を隠さなくても、駆け引きは十分にできる。

高校時代によくやった賭けトランプ。 東大にいくような連中は、みんな平気で手札をさらす。

手札を隠さず、その一部をあえて見せてしまうことで、 他のプレーヤーの意志をコントロールする。何度もやられて、いつも負けてた。

力量に十分な開きさえあれば、見せることもまた武器になる。

見せながら操作するのは難しくて、やりかたを間違えるとただの ヘタレな医者にしか見えなくなってしまい、かっこ悪いことこの上ない。

隠すやりかたから見せるやりかたへ。

対立を避けようと思ったら、もう「隠す駆け引き」というのは通用しない。

オープンに出来るものはオープンにして、仮想的な大家族を作って権威者を育て、 その上でその権威に圧倒的に「負けて見せる」。

インフォームドコンセントというのは、きっとこうしたやりかたの延長上にあるんだけれど、 うまくやっている人、どれぐらいいるんだろうか?