偽医者稼業は効率がいい

ローリスクハイリターンの医療詐欺

偽医者をやっていた人が逮捕された。

評判は良かったらしい。たぶんそんなに大きなトラブルもおきてはいないはずだ。

偽医者という「仕事」は、リスクの割りに得られるものが大きい。もちろん犯罪ではあるけれど、 いろいろな犯罪行為の中ではかなり効率がいい

10年ぐらい前ならば、偽医者という商売はほとんど成立しなかった。

安部譲二の「塀の中の懲りない面々」本の中には、 偽医者をやって「ドクター」と呼ばれていた人の話が出てくるけれど、あの人物は 大学病院で本物の医者を教えていたぐらいだから、もう本物と同じ。

詐欺の鉄則は、「手に入るものが同じなら、より簡単な場所から手に入れろ」ということだ。

10年前、病院の中には「簡単な場所」なんか無かった。 医者の絶対数が少なかったし、外来に来るのは実際に困っている人ばかり。 実際に症状があって病院に来るから、いいかげんなことをしても治らない。 救急外来には本物の急患しか来なかったから、知識の無い医者は絶対にボロが出る。 間違ったことすると、たぶん死んじゃうから。

今は違う。病院には、簡単にお金を騙し取れる人があふれている。

カモは夜に来る

夜間の救急外来は、「カモ」の宝庫だ。

風邪をひいた人。眠れない人。単に話を聞いてほしいだけの人。

もちろんそんな中に「本物」が隠れているから油断はできない。それでも、 「ばれたら逃げる」を前提に仕事をするならば、そうした人達を相手にするのに 医学知識は要らない。

医学の知識や医者の研修というものは、そのほとんどが万が一に備えるために 行われる。

  • 急変したときに対処できるため。
  • はっきりしない症状の中から、まれな疾患を見逃さないため。

急変したときに逃げればいいなら、まれな疾患を見逃してもかまわないなら、 医師免許など無くても「評判のいい先生」にはなれる。

医療という商品の2つの顔

患者さんというのは、病院に「医療」という商品を買いに来るお客さんだ。

この商品の価値には2つの側面がある。

  • 病気を治すという確実な医療の要素
  • サービスをしてほしいという、サービス業本来の要素

評判のいい医者というのは、腕もいいしサービスもいい。

腕だけよくても、医者としては片手おちだ。たとえ病気を治すのが上手だったとしても、 外来に来る人だれもが「2度とかかるか」と思ってしまうなら、すぐにその人は相手にされなくなる。

一方、腕は悪くてもサービスのいい医者というのは、万が一の時が来るまでは名医でいられる。

もちろん、患者さんが急変したりすれば、こうした偽の名医はすぐに馬脚をあらわす。 まれな疾患を見逃したことが後からばれると、恥をかく。

ところが、患者の急変なんてめったにあることではないし、まれな疾患というのは本当にまれだ。 起きないことにエネルギーを注いでもしょうがない。無愛想な隠れた名医など 存在しない。名医と呼ばれる人は、みなどこかの方面で愛想がいい。 それが患者さんなのか、同業者なのか、マスコミ限定なのかは人によるけれど。

医学の勉強を怠れば、患者さんの危険度は増す。本当は、誰もが「歩く総合病院」を 目指して勉強しないと、患者さんの安全というのは向上しない。

医者は勉強する。もっと勉強する業界もたくさんあるだろうけれど、医者だって毎日勉強する。 インターネット時代。主要な論文雑誌はほとんどが週刊誌だ。水曜日のCirculation、木曜日の NEJMとLancet、毎月月末はJACCとかAnnals。読んだっていまさら自分の手の動きがそう大きく 変わるわけではないけれど、それでも読まないとおいていかれる。

勉強をすることで、たぶん少しづつは安全率が向上しているはずだけれど、 どこまでいってもゴールは見えない。

安全の青天井ルール

一般的に、競争というのはルールがあって、その枠内でいかに優れた バランスをとれるかが競われる。

プライドみたいな「何でもあり」の格闘技だって、武器無しで人間が戦うという ルールがある。ミルコやヒョードルノゲイラといった格闘家はみんな出身が違うけれど、 その格闘スタイルというのは、今のルールに沿った同じようなスタイルに収束している。

自動車の競争もそうだ。F1みたいなフォーミュラカーはルールが厳しいけれど、 かつては CAN-AM という「4輪ならば何でもあり」というルールのレースが実際にあった。

それすらも、初期の試行錯誤の時期をのぞくと、速い車のデザインや規格というものが 自然に決まってしまい、1970年に入ってからはどれも同じような車ばかりになってしまった。

どんなに「何でもあり」のルールを考えても、競技である以上、例えば格闘技なら「武器無し」、 自動車レースなら「車輪で走る」という縛りがつく。

縛りの中で何かの性能を向上させようとすると、どうしても何か失うものが出てくる。 格闘家がウエイトを上げることでスタミナを失ってしまったり、車のパワーを上げることで、 今度はタイヤの消耗が激しくなってしまったり。

これを本当の青天井ルールにしてしまうと競技は成り立たない。格闘技が「武器あり」になってしまえば、 最後に行きつくのは銃や核兵器だ。自動車競走にジェット戦闘機を持ち込んだら、もはや 「自動車」競争にすらならない。

そんな中で、「安全性の向上」という競技にだけは、青天井ルールが成り立っている。

安全というものは、お金をかければかけただけ向上する。

ダブルチェック、トリプルチェックといった安全対策を行うと、それだけ煩雑さはますけれど、 それすらも人海戦術でカバー可能だ。お金に糸目を付けないならば、 安全性の向上は、いくらでも性能を追求できる。

安全性の追求には、本当はコストの上昇というトレードオフが存在するのだけれど、 医療という産業の特殊性が、コストについての問題を見えづらくしている。

競合相手のいない医療界

調子が悪ければ医者に行く。近くの開業の医師にかかるか、ちょっと離れた大病院にかかるか。 このとき、開業医と大病院との間には競合関係が生じる。

一見するとこれは競争なのだけれど、どちらに行ってもでてくるのは医師免許を持った同じ医者だ。 医者同士の競争意識というものは、たかが知れている。別に談合しているわけじゃないけれど、 同じ西洋医学の医者ならば、考えることは大体同じだ。

自分が飢えない程度の利益を考えながら、 そこそこサービスが良くて、そこそこ安全な医療を提供する。

医師ごとのポリシーの差はあっても、しょせんは「そこそこ」の範囲の差でしかない。

救命的な要素とサービス業としての要素、この2つの医療の側面は、 総合格闘技でいうと「人間が」「武器無しで」戦うという2つのルールに似ている。 ルールというのは最低限2つ無いと、競技が成り立たない。

今の医療で、この2つのルールをもっと強力に展開しようと思ったら、 やはり医者とは別の競合者を設定する必要がある。

価値の軸を増やすとニッチが生まれる

具体的には、医療技術は限られていても、コストが安くて会話の時間を長く取れる 職種を"準医師"として新たに認定する。

イギリスの「NP(ナーシングプラクティショナー)」、毛沢東時代の「裸足の医者」、 少しシステムは違うけれど、日本の接骨院やマッサージといった職種もそうかもしれない。

今の医療の選択肢というものは、「医者にかかる」という一つの選択肢しかない。

これはちょうど、薪を割るのと刺身を作るのに同じ鉈を使うようなもので、 実用的ではあっても効率が悪い。余裕があったら、普通は「切れ味のいい鉈」を探す前に、 包丁を買うだろう。

今の医療も同様だ。医者という1種類の職種以外に、サービスに特化した別の職種を導入して 選択可能にする。

問題はもちろんある。道具が増えると、正しい道具に出会える確率は減る。 2つの業種を導入すると、その界面に落ち込む患者の問題は必ず出てくるだろう。

それでも、ルールが増えると選択肢は多様になる。

サービスで勝負する準医師に対して、従来の医師が取れる選択肢は大きく2つ。

  • 専門性に引きこもって、安全で確実な医療を追求するか。
  • 「安く」「サービスのいい」医療を提供して、準医師と競合する道を選択するか。

いずれにしても、選択肢が2つになるだけで、医師の将来像というのは2次元的に 無限に展開可能になる。

何が正しいのかはますます分からなくなるし、患者さんサイドも「どこにかかればいいのか」が 決められなくなるかもしれないけれど、そこにまた「ガイド」としての別のビジネスが生まれる かもしれない。

ルールは複雑なほうが面白い。