アナログ評価の検査

大動脈圧波形

いま働いている集中治療室では、患者さんのほとんどに動脈ラインがつながっている。

aline.jpg 動脈ライン。右の赤いのが波形。

動脈ラインはいろいろなことに使える。血圧や脈拍数は24時間連続して測れるし、 採血も楽だ。24時間体制のICU、1日に4回も5回も採血される患者さんはたまったものではないけれど、 これがあるから針を刺すのは1回で済む。

動脈ラインの波形は病気の診断にも使える。 吸気にあわせて圧が下がれば奇脈。タンポナーデや胸水、あるいは 重篤な脱水の時にこうなる。脈拍ごとに血圧が交互に上下すれば、交互脈。これはひどい心不全の時に みられる。

動脈圧波形を見ることで、たぶんもっとも役に立つのが、体内の「水加減」を推定できることだ。

水分という大事なもの

その人の体内の水分量は、足りているのか、脱水なのか。 治療を行っていくとき、どのぐらいの「水加減」で その人の体を管理していくのか。ドライ気味に診ていくのか。あるいはウェットサイドで管理するのか。

水加減というのはいろいろな要素で決まる。

  • 心臓機能が落ちていれば、同じ水分量でもうっ血を生じる。
  • 外科の手術後などは、内科の常識ではありえないぐらいの輸液量を入れても、まだ足りないことがある。
  • 栄養の悪い人、肝臓の悪い人では、水を入れないと血圧が保てず、水を入れれば入れただけ胸水が増える。

医者のやっていることが本当に何かを「管理」出来ているのなら、 水加減を調節できる能力というのは 医者の技能の中では相当に大事な能力だ。

これは何をみても分からない。

胸部単純写真は嘘をつくし、心エコーも嘘をつく。 血液検査。肺動脈カテーテル。どんな検査でも例外はあるし、全員にできるものでもない。 静脈血酸素飽和度。とても役に立つけれど、これを正常化しようと思うと、 患者さんの心臓には相当根性を出してもらわないと、体内は水浸しになる。

リアルタイム検査のありがたさ

動脈圧波形による水加減の推定というのもまた、そうとうにでたらめな検査だ。

  • 動脈圧波形が「尖って」いたら、その人には水が足りていない
  • 圧波形がきれいな3角形をしていたら、水分量としてはだいたいいい線をいっている

基本はこれだけ。足りないならどれだけ入れればいいのか。 そもそも本当に「足りない」のか。 アナログな波形判断だけでは答えは出ない。検査の感度や信頼性という部分では、 この検査は信頼性は低い。でも役に立つ。

このパラメーターのもっとも大きな利点は、それがリアルタイムの検査であるという部分だ。

動脈圧波形はいつでも見られる。心臓の拍動1回ごとに新しいデータがモニターに出てくる。 何か機械を操作したり、あるいは検査室からデータが返ってくるのを待つまでもなく、 データは常に目の前のモニターに反映される。

ICUの治療は、分からないときは手探りで「現物あわせ」をやっていくしかない。こうした状況では、 やったことがリアルタイムで繁栄される検査パラメーターというのは本当にありがたい。

心カテ中にトラブったときなどは、もうこの波形の形を元に戻すことだけを考えて治療する。 修羅場になったとき、カテ屋が「戻ってくれ!」とお祈りするのは、心電図よりも動脈ラインの 波形のほうだ。これが平坦になると、死んじゃうから。

動脈圧波形の解釈は本当に便利だ。その割りには、その解釈の方法、 波の形が変化した時、何をするのが教科書的に正しいのか。そうしたものを まとめている教科書が見つからない。

いまの集中治療室は、いろいろな科の医師が寄り集まっている。

循環器内科やいろいろな臓器の外科。麻酔科や、集中治療の専門医。 どの文化圏の医師も、動脈ラインに「読みかた」があることは知っている。

それでも、その読みかたは現場の言い伝えレベル。今回、いい機会なので調べようと思ったのに、 まとめて解説している教科書や論文が見つからない。面白そうなのに。

デジタル時代に滅んだ検査

医療の分野も、デジタル化が進んでいる。

検査データや画像を電子化して取り込むのは当たり前。 様々なデータもまた、その解釈の方法がデジタル化されつつある。

見えたものをそのまま描写するのは時代遅れ。 病理組織は免疫染色で定量化され、画像は数字で表現される。 循環器の領域。心臓の動きや血管の狭窄度は、コンピューターが測ってくれる。

デジタル化に伴って滅んだ学問、滅んだも同然の検査も多い。

経静脈波。心尖拍動波。様々な心機図。ベクトル心電図。聴診や理学所見だって滅びつつある。

これらの検査に共通するのは、数字で表すことができないという点だ。

デジタル化しないと伝えられない

数字にならない検査では論文にならない。

経静脈波や心尖拍動波。胸に当てたプローべで心臓の波を拾う検査だから、 人によって正常値が違う。「ゼロ点」に相当する概念がない。 同じ人で毎日計ったって、その波形は毎回微妙に違ってしまう。

心機図やベクトル心電図。心臓の「動き」を波形化した検査では、その周波数は2Hz前後。 1秒間に1から2回しか動かないから、その波形変化を数字にするのはとても難しい。

アナログデータは教科書も書きにくい。

検査そのものに「正常値」が存在しないから、正常とは何なのかを表現しにくい。 アナログというのは「正常」のアナロジーでしかないから、正常を知るには 正常な症例を何百例も積んでみるしかない。

数字で表せるデジタルデータの見かたなら、正常値を書けばそれで済む。 正常ならば、何もしない。正常値を外れたら、対処を考える。

同じ波形解析の検査でも、心電図や脳波はデジタル化しやすかった。

両方ともアースをとるから、ゼロ点がはっきりしている。心臓の動きに比べれば、 脳波や心電図の周波数ははるかに高いから、デジタル化して波形を解析するのも何とかなる。

心電図の自動診断。麻酔中脳波のエントロピー解析。莫大な脳波情報の視覚化。 24時間心電計の心拍変動解析。デジタル化は様々な恩恵をもたらし、 今まで見えなかったものを見えるようにしてくれた。

AD変換の過程で失ったもの

デジタルデータは便利だ。それでも、「生データ」は常にアナログ情報だ。

アナログをデジタル化する段階で中間情報は失われるし、 医者はそのデジタルデータをみて、全体的に「悪い」とか「良くなってる」とか、 総合的に、アナログ的に判断する。

昔のお医者は偉かった。患者さんを聴診器一つで診断できたし、 我々の世代では「わけの分からない波」にしか見えない経静脈波を解釈して、 心臓の中の様子を予言する。いまは無理だ。アナログデータをアナログのまま 解釈する技術はすたれてしまった。

変換の過程で絶対に情報の欠けるデジタルデータと、 言葉で表現すると絶対に正常を表現できないアナログデータ。

心電図の解析。本当は12誘導を頭の中で再構築して、元の心臓の形を想像しながら 読むやりかたというのがあったのだが、正常な人をそれこそ何千枚もみないと 伝わらないので誰もやらなくなった。

そして動脈圧波形からの水加減の推定。非常にきれいな波形だし、ゼロもしっかりとれる。 多分誰かがやっているはずなのだが、なかなか検索に引っかからない。

アナログをアナログとして伝えるやりかたで、誰か動脈ラインの解析のしかた、 まとめてくれないだろうか。