文章メディアの限界と可能性(後半)

内容と表現は分離可能か

文章メディアが表現する中身というのは、その物語の「内容」と、「文章の起伏」とに大別される。

物語の内容のみ読み出す方法として、「斜め読み」に代表される速読の方法があるが、 そこで置き去りにされた「文章の起伏」とは、文章メディアにとってどういう存在なのだろうか。

  • 内容が肉ならば、レトリックは骨。分離すれば、文章は死ぬ。
  • レトリックというのは、着せ替え人形の服のようなもの。着せる服によって、同じ中身でも違って見せられる。

どちらの立場が正解に近いのだろう。

古い物語は、それが文書として形成される前に、長い口づたえの時代を経ている場合が多い。

昔話に代表される民間伝承もまた、初期の頃はすべて口伝で次の世代へと受け継がれた。 語り部は、聴衆の求めに応じて話を思い出す。

物語の記憶の方法の一つに、縄につけた結び目を利用するものがある。

語り部には、物語の文章の代わりに、いくつもの結び目を作った縄が受け継がれる。伝承者は、その結び目の大きさや数を頼りに、覚えた物語を再構築していく。

  • 一つ目の結び目は「昔々あるところに」
  • そのに続く、2つの小さな結び目は、「おじいさんとおばあさんが…」
  • その後ろの結びが1つなら「山」、2つなら「川」…

こんなぐあいに、結び目の大きさや数といった情報で短い文章を関連付け、話の流れは縄の長さや結び目の間隔で表現しているらしい。

テープレコーダーのようなものだが、大きな違いがある。縄自体には何の情報も乗っていないという部分だ。

どんなに巧妙に結ばれていようと、縄は縄。物語の情報の主体は、語り部おばばの莫大な情報の集積だ。文章のプロットは、どの縄を持つのかにより全く異なってくる。

文章の内容と、その表現の方法は、本質的には分割可能なものだと思う。文章の内容の見せ方は、昔の「結び縄」から現在の「文字」「漫画」、さらに将来的にはPCによる時間軸管理に至るまで、その時代の技術レベルに応じた様々な方法がとられるべきだ。

小説という表現技法は衰退する。ちょうど、白黒映画がカラー映画にとって変わられたように。それでも、文章による表現というメディアの重要性は、そのまま残る。

文章メディアは何を目指すべきか

映像表現というメディアは、前述したように意外に不自由だ。

舞台演劇や朗読、映画といった話し言葉のメディアは、時間設定の自由度が非常に狭い。 話し言葉は、そのペースが実時間に左右される。どんなに速くしゃべっても、話し言葉で伝えられる文章量というのは、1分間にせいぜい500字といったところだ。普通のペースなら、もっと少ない。

文字情報であれば、大体話しことばの2倍のペースで読める。斜め読みをすればもっと速い。

映像メディアは、たとえば主人公が60分話した内容を聞くためには、60分の時間がかかる。文章メディアであれば、物語の中での0.1秒の間には、無限に近い情報を詰め込める。「間」のようなゆっくりとした時間の流れを作らなくてもいいのなら、文章メディアというものは、時間軸をいくらでも速く設定できる。

いい小説には2種類ある。

  • 物語の力で読ませ、読者に一気読みを強要するようなパワー系の小説
  • 文章のプロットで読者を引き込む、熟読や味読といった読みかたの必要な技巧系の小説

将来生き残るのは前者のほうだ。文章メディアの進化というのは、いかに「斜め読み」に耐えられるか、物語の内容を、いかに分かりやすく読者に伝えられるかという方向に向かうべきだと思う。ビックリするようなどんでん返し、プロットの妙といった要素は、今後はプログラマーとの共同作業になる。

斜め読み前提の文章

文章メディアの利点のひとつは、未来予測の可能な一覧型のメディアであるという部分だ。本を開けば、これから読まなくてはならない文章や絵は一覧できる。時間軸に沿って進む映像メディアでは、スクリーンの前で待っていないと、先の展開が分からない。

小説にしても漫画にしても、実際に頭で読んでいるよりも、目は常に先を行っている。目で読んだ文章が意識に「音」として上る前に、無意識のレベルでは、文章はすでに頭に入ってきている。

斜め読みでより多くの情報を拾いやすい文章というのは、文章の構造というものが、あらかじめ分かっているものだ。どこに山があるのか、重大な情報は、見開きのページの大体どのあたりにあるのか、それにはどんな強調がなされているのか。そういった構造が、一冊の中で一貫していると、たとえページの一部しか読んでいなかったとしても、本一冊の大雑把な構造は頭に入る。

一方、山ほどめぐらされた伏線、コロコロ変わる人称代名詞、読者の予想を裏切るどんでん返しといった技巧は、飛ばし読みをしている人の障害になる。熟読する人には面白い仕掛けも、急いでいる人には単なる障害物だ。

飛ばし読みに最適化された日本語という言葉

英文表記は視覚的には不利 英語は、即座に認識するのには不利な言語体系をもっています。 漢字表記や日本語のように仮名まじり漢字表記に比べて、文字としての識別機能が落ちるのですね。

例えば、本屋や図書館などに行ってみると分かります。日本の本屋で書籍の大量に並んだ本の中から目的の本を探すのと比較すると、欧文の本を探すのは、時間がかかります。 日本語表記の本を探す場合は、並んだ書籍の背表紙の上に視線を走らせるだけで、選び出せます。選び出せないまでも、著者などで大体の見当をつけてから詳細に見る、ということができます。欧文表記の本が並んでいる場合は、そうは行きません。 編集とレイアウトの基礎知識より改変引用。

文章を一覧できないという現象は、なにも日本人が英語が不得意というわけではなく、英語圏に住んでいる人にとっても同様らしい。英語は「斜め読み」には向かない。これができるのは、日本語の大きな特徴らしい。

漢字かな混じりの文章というのは、飛ばし読みをするときには大きな利点がある。

  • 漢字を多用することで、より少ない語数で大量の情報を伝えることができる。
  • 漢字は見た目で暗記されているので、一つ一つの語を読まなくても意味が伝わる。
  • 単語と単語との間は、明らかに見た目の異なるひらがなで結ばれているので、文章の中で意味を拾う必要のある部分は自然に明らかになる。
  • 識別性に優れた漢字とひらがなは、頭に情報として格納されるスピードが速い。

日本人は九九を覚える。だから計算が速い。

同様に、漢字を中心にした言語を持つ人たちは、漢字の意味を大量に記憶しているから、文章理解のスピードが速い。

小学校の頃に泣かされた、膨大な量の漢字の暗記というものは、日本語という文字メディアに、斜め読みに対応した概念ツールとでもいうべきものを与えくれたのかもしれない。

英語には、そうした斜め読みに相当する技術や、文章をの大雑把な内容を把握する「概念ツール」に相当するものが無いか、一般的ではないらしい。英語はわずかなアルファベットの組み合わせだ。単語の意味を理解するには、この組み合わせが何を意味するのか、一回一回「計算」しないと答えが出ない。

漢字圏の単語は、組み合わせの数も少ないし、それもまた「熟語」で記憶されている。文字の形と記憶が一対一対応だから、計算の負荷は少ない。

進化した文章とはどういうものか

  • 文章全体の構造というものを速い段階で明らかにすること。
  • ひとつの名詞を表す単語は、文章を通じて同じにすること。
  • 意味をもたせたい単語、あるいは重要な単語には漢字を使い、それ以外はひらがなでといった使い分けを試みること。

こうしたことに気を配りつつ、そのまま文章を書くと、起伏のない、「頭の悪そうな」文章が出来上がる。「紙に文章を書く」という現在の表現手段では、まだまだ文章の修飾は欠かせず、内容と表現との分離は難しい。

このあたり、HTMLを書くときにテーブルレイアウトを多用すべきか、CSSに任せるか、といった話題に通じるものがあるのだが、現時点ではある程度のレトリックをいれて文章を書かないと、何よりも文章を書いている自分自身が退屈でしょうがない。

HTMLで分けるようにいわれているのは「内容」と「構造」だが、その内容にあたる文章自体もまた、内容と構造とに分解可能だろうか。同じな内容でも、その表現のしかたによりコメディーにもホラーにもなりうる文章。そんな情報の記載ができると、文章メディアのあり方というのはずいぶん変わってくる気がする。

  • 一切の演出抜きで斜め読みしたいときは、斜め読みモード。
  • じっくりと読んで、驚きを味わいたいときは、伏線モード。
  • さらっと読みしたいときは、エッセイモード。

状況に応じて演出手法を選択可能な文章というものは作れないのだろうか。

思わせぶりな前振りをなくし、文章を飾ることを止め、同じ単語を繰り返して伏線を張るのを止める。文章の修辞や、レトリックといった修飾手段は、フォントの大きさや濃さ、あるいはまったく別の表現手法を導入することで、今までの文章メディアのあり方を進化させることはできるだろうか?

現在の技術の進歩を取り込んだ、映像メディアの1つの到達点にあるのが StarWars の最新作だ。内容の是非は脇に置くとして、あの映像はもはや見る絶叫マシンの領域に達している。同じ時間内に、とにかくより多くの情報、より多くの刺激を詰め込めばああなる。視覚と聴覚を通して入ってくる情報量はもう限界に近い。

ジョージ・ルーカスは、次世代の映画には、嗅覚とか触覚とか、新しい感覚の導入を考えているという。映画は進化して、いよいよ遊園地のアトラクションに近づいている。

文章の進化の方向は逆だ。いかに無駄を削るか。文字というメディアを通じて、どれだけ多くの情報を、短い文章に詰め込むか。

構造や修飾というものから完全に自由になった文章メディアというのは、やはり「本」という型式を捨てるような気がする。その先に現れる文章表現というのはどんな形をしているのだろう。