悪魔のささやき

医師という仕事を始めて何年かたつと、救急外来の研修医からコンサルテーションを受ける機会が増える。

咳が出て発熱している患者さんがいます」というコールに対して、 上級生が行うアクションはだいたい2種類。

上級生A:「じゃあまず病歴を取って診察して。レントゲンは本当に必要?痰のグラム染色した?」 上級生B:「じゃあ、チエナム」。

Aの先生は、ERに降りてきて研修医と一緒に診察してくれる。 その後喀痰のグラム染色。まずは「この患者さんには本当に抗生物質は必要か?」を論じた後、 病歴やグラム染色の結果で抗生物質を選択。この間3時間。

Bの先生は、チエナムの点滴が落ち終わった頃にやってきて、 「じゃあ、経過観察目的で入院しましょう。」と一言。

知恵が無いからチエナム。あらゆる細菌を殺すこの薬は、 「正しい医療」を行っているかどうかの試金石だ。「正しい」医者は、 意地でも使わない。

AとBとの2人の医師。どちらが研修医にとって勉強になるだろう?。

答えはもちろんAだ。研修医10人が10人、まずは上級生Aの元で働くことを考える。 自分を教えてくれた上級生もAのような人たちばかりだった。

では、どちらが患者さんの役に立つ医者なのだろう?

昔はAだと信じていた。Bのような医者は、頭を使わないダメな医者。 患者さんをろくに診察もしないで、検査と治療をいきなり始めるなんて、 使えない医者のステレオタイプだと思ってた。

「正しい医者」は、絶対にそんなことはしない。ちゃんと患者さんの話を聞き、 診察をしてから必要最低限の検査を行う。検査所見がどうだろうと、 信じるのは病歴と理学所見だ。

  • CT?あれは診察も出来ない馬鹿者のための画像診断だ。本当に必要な患者だけ撮ればいい。
  • チエナム?あの薬、漢字では「知恵無」と書くんだよ?そんなの使ってまで、自分に知恵の無いのを公言しなくてもいいんじゃない?
  • CRP?ああ、愚か者の出す検査だね。CRP高値の疾患を全部挙げてごらん?言えないなら、出す必要は無いってことだよ…。

昔はこんなことを習ったし、自分達もそう教えた。 研修医の頃はそれでもよかった。自分達のやっていることは正義の治療。 大学は悪魔の手先の巣窟。上級生は神。神の決断は絶対。

数年たって曲がりなりにも一人立ちするようになり、世界には徐々に問題が増えてくる。

「ちょっと待て。だいたい、自分の理学所見なんて信頼できるのか?

自分の頭の中身に疑問を持つようになると、あれほど蔑視していた 「大学病院の医者」が使う検査機器や治療薬が、なぜか急に使いたくなってくる。

  • 「たぶん筋緊張性頭痛だけど、なんとなく左手の力が弱いような気がするからCT。」
  • 「たぶんウィルス感染症だけど、病歴に湿性咳嗽があったからクラビットも併用しようか…。」

研修医を終えてもやることは同じ。昔の上級生と同じように、 研修医と一緒に理学所見をとり、検体を染めて顕微鏡をのぞく。

ところが、その行為の目的は変化した。

「診断をつけるため」から、CTを撮るため、広域抗生物質を用いる言い訳へ。

「診察をする自分の頭」に対する疑念がますます強まったころ、耳元で悪魔がささやきだした。

不安ならCTをオーダーしなよ。電話一本で確定診断だ。放射線の先生も残ってる。 患者さんもそれを望んでる。今の時間なら、検査室だってガラガラだ。 一緒に生化スクリーニング採血を出せば、検査室のスタッフだって業績が伸びて喜ぶ。 ほら、チーム医療って奴さ。医者がオーダーしなけりゃ何も始まらない。 君が学んできた方法論は古いんだよ。こんな時代だ。やせ我慢するな。楽になれよ。

5年目までは、悪魔に必死に抵抗した。

今までの方法論を守り、一生懸命理学所見をとり、患者さんから得られる最小限の情報を元に、自分の頭を最大限に使って診断名を考えた。一応そこそこ患者さんはついてくれ、外来に来る人は増えた。

午前中に診なくてはいけない患者さんは何十人にもなり、外来が定時に終わらなくなった頃、 自分は考えることを止めた。

悪魔の言うこと」に従うようになると、業務がとたんに楽になった。

検査を出せば、みんなで考えられる。理学所見は一人よがり。 患者さんを病院中引き回すわけには行かない。画像は持ち歩けるし、 コピーも出来る。他のスタッフや、他科の先生の意見を聞いて回るのも簡単。 まさにチーム医療。

治療の決定も簡単になった。

  • 耐性菌増えようが、うちの患者さんには何もおきませんが、何か?
  • 夜中に顕微鏡を眺めながら頭を抱えるのは、もうたくさん。
  • 医療経済?文句は厚生省に言ってくれ。

「患者さんのために医師が頭を使う」という行為は、本当に患者さんのためになっているのだろうか?

検査を増やせば、同じ診断名に行きつくまでの医師の頭の負担は 確実に減る。同じ時間でより多くの仕事が出来る。

負荷が減った頭のパワーは治療までのスピードアップに回す。

肺炎なら病歴をまじめに聞けば、話だけでだいたい診断はつく。診察や画像検査を出す前に、解熱薬(アセト)と経口抗生剤(クラビット)をのんでもらう。検査データが帰ってくる前には、もう治療は始まっている。

「主訴、発熱と咳」で患者さんが来院。抗生剤が始まるまで15分。悪魔に魂売る前は、3時間。この差は、少しは予後に効いてこないか?

自分が研修医になってからずいぶん時間が経つが、「病歴=>理学所見=>必要なら検査=>診断・治療」の流れは一向に変わる様子が無い。

現病歴と診断との組み合わせのパターンは、この数年だけでも膨大な蓄積があるはずだ。

そろそろ、「病歴=>治療=>裏づけのための検査=>サービスのための理学所見(床屋さんだって散髪が終わったら肩をもむ)と説明」という流れが実用的に使えるようにならないだろうか?

こんなことを周囲の同級生に話していたのが数年前。「無理。」「妄想。」といった返事ばかりで相手にされず、そのうち大学病院へ。

来てみたら、大学病院の先生方も病歴と理学所見を重んじ、「大学病院の医者」らしい治療を行う先生などほとんどいない。ここも「正しい人たち」の教えが浸透していた。

一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ? すべてが失われたわけではない竏停・まだ、不撓不屈の意志、 復讐への飽くなき心、永久に癒やすべからざる憎悪の念、 降伏も帰順も知らぬ勇気があるのだ! 敗北を喫しないために、これ以上何が必要だというのか?

今に見ていろ。