足したら引かなきゃいけない

「改革」は常に必要で、それなりにうまく回っている職場においてもまた、 定期的に新しい技術が導入されて、現場には、「複雑さ」が付加される。

技術者の人達は、「それが入ることによって出来ること」を強調するけれど、 宣伝されたすばらしい未来は、来てみれば案外役に立たなかったり、手続きが複雑になるだけだったり、 価値を実感できないことも多い。

技術はたぶん、「それが入って何が出来るのか」を問うよりも、むしろ 「それが入ることで、現場から何を不要にできるのか」を考えたほうが、 価値をより正確に判断できる。

「何も引けない」新技術というものは、おそらくはたいていの場合、結果の改善に寄与しない。

ガンマ単位の昔

昇圧薬を使うときには、昔はガンマ単位を計算した。

患者さんの体重あたり、必要な量を小数点以下まで計算して、その人なりの、 昇圧薬の使いかたを表にして、血圧をコントロールするやりかた。中身は全く同じ薬なのに、 ベッドごと、患者さんごとに、薬の使いかたは、みんな異なってた。

複雑だった。そうした複雑さこそが集中治療だと思ってたし、かっこいいと思っていた。 電卓片手に、小数点を計算することに、みんな何の疑問も持ってなかった。

実際のところ、計算ミスだとか、点滴の取り違えだとか、たぶんたくさんあったはずだけれど、 みんな「集中治療とはそういうものだ」なんて、危険な状況を、 下手するとむしろプライド持って誇ってたりした。

自分達が研修医を始めた当時から、現場には「動脈ライン」というものが導入されていたけれど、 患者さんにそれが入っているのが当たり前になるためには、もう少しだけ時間がかかった。

大学に移って、今の集中治療室なら、患者さんには全員、動脈ラインが入るようになった。 手動で測定していた頃、血圧は、せいぜい測って1時間に1回だったのが、動脈ラインを使うと1 拍動ごと、 1 分間に最低でも60回ぐらいは測定できるのが当たり前になった。

血圧がリアルタイムで把握できることが当たり前になって、今度は昇圧薬の使いかたが、「現物合あわせ」で いけるようになった。体重を計算して、1 時間後の血圧を予想して、小数点以下まで量を指定していた昇圧薬は、 今では「血圧が上がるまで適当に増やす」なんていいかげんなオーダーを行っても、 ガンマ単位を計算していた頃と、全く同じ結果が得られるようになった。

複雑さを放り出すことには抵抗があって、それでも何年間か、みんなガンマ単位を計算していたけれど、 そのうち誰もが計算機を捨てて、昇圧薬の濃度は、全患者さんで共通になった。

集中治療室には、「動脈ライン」という複雑さが一つ増えた代わり、 「ガンマ計算」という、やっかいな、ミスの可能性が高い複雑さを一つ、放り出すことが出来た。

結果としてこれは、点滴の間違いだとか、量の間違いみたいなミスの可能性を減らすことにつながって、 恐らくはたぶん、動脈ライン以後の集中治療室は、少しだけ安全な場所になったのだと思う。

無人戦闘機のこと

最新鋭の戦闘機は、もはや翼なんていらないんじゃないのか、と思えるぐらいに複雑な機動が出来るけれど、 今以上にすごい動作を行うと、たぶん中の人間が耐えられない。

いろんな国で、だから「無人戦闘機」というものが研究されているけれど、 「無人」という新技術を導入するならば、人間の許容範囲を大きく超えた、 無人の超絶戦闘機を想像してはいけないのだと思う。

「人が乗らなくてもいい」という、新しい複雑さをそこに導入するならば、 今度はたぶん、「相手の戦闘機に勝つ」という、戦闘機本来の任務、複雑さを捨てられるという 発想をしないといけない。

無人戦闘機には、人が乗っていないのだから、もう勝たなくてもいい。たとえ撃墜されたところで、 基本的に誰も困らない。困らないなら、機体は安く、たくさん作ればいい。

どれだけすごい戦闘機を作ったところで、銃弾の数には限りがある。おもちゃみたいな、 安価で弱い戦闘機であっても、それが無数に、群れを作って飛んできたら、もう撃墜できない。

無人機は、たぶん高性能なものと、安価なものと、開発は両極化していくんだろうけれど、 戦争というものの風景を大きく変える可能性を持っているのは、技術的にはちっぽけな、 安価な無人戦闘機なんだろうと思う。

結果に貢献する技術

恐らくは世の中には、「現場に何か足す」技術と、「現場から何か引ける」技術とがある。

技術者はたぶん、「足せる」ものを好む。だからこそ、戦闘機は新しくなるほどに「強く」なって、 年を追うごとに技術は変化しているのに、「相手に勝つ」という目標は、決して変わらない。

技術を受け入れる現場の側も、足される複雑さに目がくらんで、 「これはすごい」なんて、状況の改善に寄与しない複雑さを賞賛したりするけれど、それは違うんだと思う。

新技術が導入された必然として、現場の手続きはより複雑になるけれど、結果の改善に寄与しない、 「足す」だけの技術というのは、たぶん「やりかたが複雑になった」ということでしか、 自らの正当性を主張できない。

新しい技術を受け入れる側は、何かを引かないといけない。その技術を受け入れて、 その技術は、代わりに何を不要にしてくれるのか、それを見つけ出すのは、 技術を開発する人の仕事ではなくて、現場でそれを使う側の責任で、 その技術が入ったとして、現場から何も「引く」ことが出来ないのならば、 それがどれだけ複雑な、すばらしい技術であったのだとしても、それを受け入れてはいけない。

「その技術が加わったとして、我々はどこで手を抜けますか? 」

技術を評価する人達は、自らに、こう問い続けなくてはいけないのだろうと思う。