フィクション欠乏症について

「大人になること」というのは、「何かに飽きる」ことと同義であって、ある分野に対して飽きることに失敗したまま、 資金力や実行力ばかりが身についた「大きな子供」は、しばしば暴走して、とんでもないことをしでかしてしまう。

オカルトの摂取は大切

たとえばオカルトを恒常的に摂取している人たち、今でもムーを欠かさない自分みたいな人間は、オカルトというものを楽しみこそすれ、 それを心から信じ込んだり、何かのオカルトグッズに全財産をつぎ込んだりといった行動は、逆に出来ない。 オカルトがどれだけ魅力的でも、20年もつきあっていれば飽きが来るし、人間の想像力には限界がある以上、 オカルトマニアがどれだけ想像力を駆使したところで、新しい神秘はなかなか出てこないものだし。

「飽き」という現象は、恐らくはオカルト以外のどんな分野にもあって、力を持てない子供のうちに、そうした極端なフィクションをたくさん摂取して、 それに「飽きておく」ことで、大人になって力がついたとき、「飽き」が力の暴走を防いでくれるのだと思う。

フィクションの力

たとえば子供の頃にオカルトの摂取に失敗した人が、力を持った大人になって、はじめてオカルトと対峙してしまうと、とんでもないことになる。

新興宗教なんかは、事件が発覚したとき、中の人には学歴の高い人たちが大挙していたし、幸福を呼ぶ壺だとか印鑑に、 家が傾くほどの財産をつぎ込む人は、今だって決して珍しくない。東大みたいなところだって、新興宗教に走る学生の問題は尽きないし。

たいていの大人にとっては、それがすでに「飽きた」ものだからそう見えないだけで、オカルトをはじめとした様々なフィクションには、 実際のところ、それだけの魅力と力とがあるのだと思う。

オカルトは、たしかに下らない。でも、「下らないから」オカルトから遠ざけられて、 子供の頃にオカルトに飽きることに失敗してしまった人、オカルトの摂取が足りなかった人が、 大人になってオカルトに出会ってしまうと、大人であるということは、「下らない」何かの魅力を回避するほどの力を持てない。 魅力に対して距離を置くためには、どうしてもそれに「飽きる」必要があって、暴走しないで飽きるためには、力のない子供の頃に、 そうした「下らない」フィクションを、十分量摂取することは欠かせない。

創造は欠乏から生まれる

フィクションの摂取が足りなくて、それに飽きる体験を経ないままに力を持った人が、大人になって新鮮なフィクションに出会ってしまうと、 それに病的に耽溺することになる。

冒険家みたいな人もそうだろうし、作家と呼ばれる人たちの、ある意味「異常な」想像力を生み出しているものは、 あれは過剰からではなくて、欠乏が、その引き金を引いているのだと思う。

作家には読書家が多いけれど、子供の頃から本の虫で、様々なフィクションを摂取し続けてきた人というのは、 読書が好きな人にはなっても、あるいは作家にはなりにくいのではないかと思う。常人を超えた想像力を、 何年もの間発揮することが出来る作家の人たちというのは、恐らくは「正しい大人」に比べると、どこかで世界を過剰に新鮮に眺めていて、 その新鮮さというものは、幼少児に、何かの分野でフィクション摂取の欠乏を生じたことが遠因になっている。

表現というのは体験の記述であって、表現の上手さ、伝わりやすさについては再現可能な技術だけれど、 表現それ自体というものは、コンテンツを持った人にしか作れない。コンテンツというものは、 様々なものに飽きた「正しい大人」が、大人の想像を超えたすごい体験をしても生み出すことが出来るし、 世界のあらゆるものが新鮮に見えてしまう、異常な感覚を持った人であれば、近所をちょっと一回りするだけで宮崎アニメができたりもする。

いかがわしいものには意味がある

都知事閣下の言動や振る舞いは、どこか極端で、漫画の主人公みたいなイメージがある。子供みたいにわがままで、 やりたいことを強引に押し通すことを繰り返す一方で、あの人はたしかに、創作者として成功していて、 あの状況というものが、まさに「フィクション欠乏症」の、一種の典型像なのだと思う。

都知事はいかがわしい漫画を規制しようとしているけれど、いかがわしい漫画を子供の頃に十分量摂取できないと、 たぶん都知事みたいな大人が生まれる。

世の中の大人が、それを「いいことだ」と判断するのならば、それでもいいのだろうけれど、 力のない子供のうちに、フィクションを通じて様々な疑似体験を行って、それに「飽きる」ことができないと、 その人はやっぱり、大人になったとは言えないんじゃないかと思う。