一本勝ちは強いのか?

ボクシングだとかレスリングみたいに、「相手が自分と同じ技量を持っている」 ことを前提に技が作られている競技と、合気道みたいに、「相手がこちら側の技を知らない」ことを前提に している競技とがあって、柔道もどちらかというと、「技をかけられる側の無知」を前提にしている気がする。

柔道の授業で習ったこと

柔道の授業では、最初に受け身の練習があって、お互い試合を始める前に、 「これだけはやるな」という教えを受ける。

投げるときは、絶対に足を曲げちゃいけないこと。投げられたら、粘らないで素直に受け身に入ること。

「これ守らないと、死ぬぞ」とか、一番最初に注意される。

投げるときに足を曲げると、受け身とれないまま、後頭部から床に落ちるし、 投げられるときに粘ろうとすると、投げられたとき、2人分の体重が腕にかかったりして、骨が折れてしまう。 お相撲の「河津掛け」みたいなことすると、だから本当に危ないだとかで、 やる真似するだけで怒られる。

柔道は、元々が人を殺す技をアレンジした競技で、「一本」を取れる状態というのは、 だからやりかたを少しだけ昔に戻しさえすれば、たぶん投げられた相手が大けがをする。 まじめにやると、相手が本当に死んでしまうから、投げが決まって、相手が「死に体」になった時点で、 投げるは「お約束」に従って、背中から落とす、安全な投げかたをする。

投げた瞬間に相手にしがみつくと、男2人分の体重がどこかに集中して、破壊力が増す。 投げる側は、そのとき「2人分の体重」を相手の首にかけてしまえば いいだけの話しなんだろうけれど、それやると大けがするから、バランスを崩して倒れないといけない。 それが続くと試合にならないし、やっぱり危ないから、「粘るな」なんて習う。

技が成立する前提のこと

柔道の一問一答だかで、「柔道の谷は本当に強いんですか?」なんて身も蓋もない質問があって、 「柔道知らない人が相手なら、谷の前に5秒と立っていられない。柔道知ってる人なら、 たとえば高校生の初段ぐらいでも、体格が十分大きければ、谷でも難しい」とか答えてた。

柔道みたいな武道は、たぶんどこかに「相手が技に無知である」という前提があって、 お互い「一本」を狙う戦いを成立させるには、一番大事な場面になったとき、 投げられる側が、投げる相手に対して「無知」にならないと、お互いに怪我をしてしまう。

柔道よりももっと「お約束」が多い合気道は、触っただけで相手がふき飛ぶ。

あれは飛ばされてるのではなく飛んでいるんだけれど、技をかけられたとき、 飛ばないと手首が折られちゃうから、身を守るためには飛ぶしかないんだという。

合気道の技を上手な人にかけてもらうと、何だか自分の体が自分のものでなくなったような、 面白い体験が出来る。合気道は、相手が無知で、「面白がって」いるうちは、 良くできた術理が成り立つのけれど、技を知っている相手が少しでも逆らおうとすると、 痛い思いをすることになって、自分から飛ばないと、競技にならない。

合気道はだから、対外試合みたいな制度が、そもそも存在しないらしい。

柔道も、技を本気でかけると、相手が大けがすることになってる。 お互い空気読まないで、本気出して試合すると、たぶんどちらかが大けがするから、 上手な人の一本勝ちというのは、どこかで相手が「空気を読んで」、 相手に対して何かをあきらめることで、はじめて技が成立している気がする。

「死に体」のこと

日本の柔道みたいな、そもそもが殺しあいの技であった武道を、 それを残したまま対戦形式にするのは、どこか無理がある。

剣道もそうだけれど、高校剣道で強かった人が大学の大会に出ると、 全然勝てなくて悩んだりするらしい。どれだけ相手に竹刀を当てても、 「気がこもっていない」とかで、審判の人に無効扱いされてしまうらしい。

その技が本当に有効なのかどうか、竹刀の代わりに真剣使えば、もちろん一瞬で答えは出るけれど、 それはもうスポーツじゃないから、相手が「死に体」になったかどうかは、審判の経験で判断する。

今の技が本当に有効であったのかどうか、それを選手がお互いに判断したら、 空気を読まない側が勝つのは見えてて、日本ではだから、審判がきちんと「一本」を判定して、 「一本勝ち」がきれいに決まる柔道競技が成立する。

剣道も、柔道も、「一本」というのは、「これで相手を殺せるかどうか」を 審判の経験で判断しているわけだから、「一本」を誰もが納得するような形で 判定するのは難しいし、数字で示せるような定義には遠い、「名人芸」的な判定をしないといけない。

レスリングとかボクシング、あるいは海外の人がやってる「judo 」なんかは、 たぶんお互いが技を知ってることが前提になっていて、文章できちんと定義された「負け」の 状態に相手を持って行くためには、自分はどうすればいいのか、結果を想定して、 そこからやるべき動作を演算しているような印象。

日本のやりかたは、「正しいやりかた」がまずあって、勝ちというものは、 正しいやりかたの帰結として、審判とか、さらにその上にいる「武道の神様」が授けてくれるもの みたいな考えかたをして、正しさを追求するのが目的になって、勝ちはあとからついてくるものみたいに見える。

「一本」目指すのは強いのか?

柔道で金メダル取った選手が、「一本勝ちにこだわった成果です」とか、インタビューで答えてた。

喜んでいたし、もちろんそんな姿勢は金メダルという結果につながったけれど、 それでもやっぱり、今の「一本勝ち」目指すやりかたには、どこか納得できない気がする。

強い人は、勝つ。

でも「強い」と「勝ち」との間にある「だから」については、勝った選手それ自身の言葉で「だから」を語られてもなお、 それが真実かどうかは誰にも分からないし、「だから」には、いろんな人の思惑が投影されてしまう。

金メダルを取った選手は、これはもう、疑いようもなく「強い」のは間違いないけれど、 あの選手は、一本を取りに行った「にもかかわらず」金メダルを取れたのか、それとも 一本を取りに行った「から」勝てたのか。金メダルを取ったことそれ自体は、 必ずしも「一本を狙うやりかた」のすごさを証明したわけではないのだと思う。

やりかたには、「強い」と「弱い」以外に、どういうわけか「きれい」というパラメーターがあって、 「強い」はたしかに「弱い」の対極にあるけれど、「強い」と「きれい」、あるいは「正しい」は、 目指すべき場所が異なってしまう。

えらい人達は、「きれいさ」という、「強さ」とは微妙にずれた価値観を選手に投影して、 勝てるやりかたが出来ない状況作り出しておいてなお、選手に「勝ち」を求めてる気がする。

「きれい」目指すなら、「勝つ」ことあきらめて、神様に捧げる美しさを目指すべきだし、 「勝つ」こと目指すなら、むしろ真っ先に否定されるべきは、前提必須の「きれいさ」で、 前提が共有できない相手を想定しても、なお勝ちに行けるやりかたを「きれい」と定義しないといけない。

「一本」で勝つ柔道はたしかにきれいだけれど、あれをいびつだと思う価値観が、 審判だとかコーチの人達に共有されないと、不幸になる人多い気がする。