かっこ悪いことは本当はかっこいい

どんなベテランでも判断ミスから自由になれないし、油断すれば失敗する。患者さんに怒鳴られたら 腹も立てるし、相性のいい研修医とそうでない研修医、神様じゃないから、平等に接することなんてできない。

ときどき完璧になれても、常に完璧でいられる人なんていない。それを「たるんでいる」とか批判すること それ自体が欺瞞であって、むしろ完璧になりきれない人、だらしのない、失敗ばかりする医師こそが 「正常」であって、そこから始めないといけない。

みんなミスをする

どんなときでも冷静沈着、どんなに疲れているときでも熱心さを失わない人は、たぶんどこかおかしい。 その人は、人としての「正常」なんかではありえなくて、何かが過剰であって、 たぶんどこかで、その過剰さの代償として、必要な何かが欠けていたりする。

「正しい医師」というのは、相当に理想化された、 目指すべき対象としての存在になってしまって、世間が求める「正しい医師」と、 実際の自分との乖離が大きくなりすぎて、それを演じることに疲れた人が、今現場を離れてる。

戦場で「ズボンを汚す」ことは不名誉だから、昔から、誰もそんなことを認めようとしなかった。

現場を体験した誰もがそれを認めようとしなかったから、「正しい兵士」は美化されて、 美化された自らを演じられなかった、戦場で失禁したり、勇敢な行動を取れなかった 大多数の兵士は自分を責めて、そんな人はやっぱり不名誉な自分を隠蔽したから、 事態はますます悪化した。

「正しい兵士」は常に冷静で、実戦になると訓練以上の判断力を発揮して、その時になると勇敢に戦い抜く。

平時の自己欺瞞の連鎖が、こんな「正しい兵士」の姿を一人歩きさせて、たぶん多くの人達の振る舞いを、 おかしな方向にねじ曲げた。戦場で「正しい兵士」の行動を取れる人なんて、もちろんほとんどいなかったから、 戦場に出向いた多くの兵士は、自分を「不名誉な人間である」と責めた。

正しい兵士なんていなかった

第二次世界大戦の昔、兵士は船で移動した。船の旅は時間がかかるから、兵士はお互いの体験を語り合って、 美化されすぎていた「正しい兵士」など、戦場のどこを探してもいなかったことにはじめて気がついて、 自ら貼り付けた不名誉のレッテルをはがすことができた。ベトナム戦争になって、兵士の移動は航空機に なったから、戦場から帰還した兵士には、お互いの体験を語り合う時間がなくなった。便利になった反面、 このことがたぶん、多くの兵士に正味以上のストレスをかけてしまった。

医療の現場で「正しい医師」の姿が一人歩きして、ありえないステレオタイプが賞賛されて、 現場との距離が広がる一方。みんな「常に」熱意持って、「常に」注意深く行動することなんて できるわけないのに、「正しい医師」はもちろん疲れないし、ミスをしない。

疲労だとかミスだとか、それらは全て、「正しい医師」を演じきれなかった現場のせいになって、 みんなだから、自分を責める。産科だとか小児科だとか、 現場が厳しい業界は、たぶん「正しい医師」の正しさが、正味以上に巨大化して、 現場にのしかかる。だからみんな辞める。

疲れればみんな手を抜くし、いらついているときにはミスをする。人間はそういうものだから、 疲れているときには血液検査を増やしたり、イライラしているときには日程をずらしたり、 ダメな自分に向き合いながら、折り合いをつけながら、「正しい医師」なんていなくても、現場は回る。

きっとどこもそうやってるはずなのに、Web 世間見渡しても、そんな本来の日常乗り切る やりかたは、あんまり書いてない。

ワーストケース体験すべきだと思う

今やられている「外来実習」というのは、「医療ボランティア」が模擬患者を演じて、 ままごとみたいな外来が行われたあと、「先生の態度には愛情が少ないような気がします」なんて、 講評を受けるらしい。ああいう訓練は、「医療ボランティアを買って出るような人を敵に回すとろくなことが起きない」 なんてことを学習するにはいいかもしれないけれど、それを学んだ学生は、たぶん外来それ自体が嫌いになって、 身につくことは何もない。

研修医の頃、入院中の態度が悪い糖尿病の高齢者がいて、騒いだり呑みに出かけたり、ナースから苦情が出た。

自分はその時正義の味方気取ってたから、その人を強制退院させるつもりで「説得」に臨んで、 もう手も足も出せないぐらいに言い負かされた。あまりにも見事にたたきのめされて、あとから「すいませんでした」とか、 その老人に謝ったら、強制退院させる予定だったその人本人から、「こういうこともあるよ」とか慰めてもらった。

ああいう経験はみっともないけれど、それでも全ての医師が受けるべきだと思った。

「模擬患者」には、むしろ本物のチンピラの人とかテキ屋の人とか、あるいは他の病院で働いている 現役の医師に、患者さんに扮してもらわないといけない。実習も、ワーストケース想定して、 クレームだとか罵詈雑言だとか、コミュニケーションなんて最初から成立しないような状況を 設定して、そんな中でもなお、罵詈雑言に耐えて、自らの正しい部分を護りながら、 間違ってる部分、相手を不愉快にした部分の問題の切り分けを行って、そこを謝り倒して帰って生き延びる、 そんな体験ができたらいいなと思う。

研修医は許可無く泣くことを許されない

理想的な「正しい医師」を想定して、それ目指すよう、道徳を説くのは間違いだと思う。

本来やらないといけないのは、世間が望む「正しい振るまい」を定義した上で、自分たち現場の人間が、 そんなふうに「振る舞わざるを得ない」ように、訓練プランを作ること。「熱心な医師」作りたいのなら、 「熱心に振る舞わざるを得ない」訓練考えないといけない。

撃たれたら「死ぬ」ルールで兵隊を訓練すると、兵隊は撃たれたとたんに「死んで」、それ以上の行動が できなくなってしまう。学生の実習なんかでも、「データが悪くなった」患者さんは「死ぬ」と教えられるから、 医師はどこかであきらめたり、あるいは状況が悪くなったとき、それ以上体が動かない。

臨床実習なんかはだから、どうしようもないぐらいに具合の悪くなった患者さんを想定して、 みんなで何とか知恵を絞って、その人にそこから必要な治療だとか、検査だとか、 選択枝としては「他の病院にお願いする」だとか、「自分よりも上手な医師をどこからか捜してくる」だとか、 現実に想定可能なあらゆる手段を駆使して、その患者さんを「治癒」に持って行く、 そんなやりかたを教えると、きっとうまく行く。

「あきらめの早い医師」だとか、「取れる手段を全て取ろうとしなかった医師」だとか、 マスメディアがときどきやり玉に挙げるような医師を作りたくないのなら、 むしろそういう医師をこそ「正常」規定して、訓練のやりかた提案しないと、 状況は変わらない。

かっこ悪いことは本当はかっこいい

同業者の日記とか読んで、プロフィール書いてる人けっこういて、みんなきれいな履歴。

どこかの大学医局に入局して、臨床の腕を磨いて問題意識もって、 何か新しい技身につけるために留学したり、病院移ったりして、精進して、 そのうち大病院を「卒業」して、現場放り出して開業して、今成功して満足して、日記書く。

「ああこのせんせいはすばらしいじんせいおくってきたんだな」なんて感激しながら日記ひもとくと、 まず最初に「ここまで読んだ人は、ポチ! 」とかblog ランキングの投票ボタン置いてあったりして、 この時点で相当嫌になる。

もっと「かっこわるい」話聞きたいなと思う。

常に成功しかしてこなかった、失敗なんて他人事の人生送ってきた人なんて、きっと少ない。

どこかに転出したときには、きっと何かもとの施設で嫌なこととかあったはずだし、新しい施設に 移ったところで、最初から順風満帆であるわけなくて、人間関係で苦労したとか、 前の職場との「格」の違いみたいなものにアイデンティティー揺らぎそうになって、 自分自身を納得させるのに苦労したとか、かっこ悪くて、思い出すのも嫌で、 書きたくないことは、きっとたくさんあったはず。

読者が読みたくて、「ポチ! 」とかしたくなるのは、むしろそんな部分だったりする。

読者が外からその人を観測して、唯一確定的と思えるのは、その人がたぶん医師であって、 日記自慢げに書いてるぐらいだから、たぶん今のところは、 そこそこに余裕がある暮らし送ってるんだろう、というその部分だけ。

その人の人生が成功体験の連続で、成功を重ねた帰結が「その程度」なら、 医師というお仕事の魅力もまた「その程度」なんだろうし、もしもその先生が、 あんな失敗、こんな挫折を何とか乗り越えてここまで来て、「正しさ」演じきれなかった「だめな自分」と、 どうにか折り合い見つけて今に至っているならば、生き残るための手段として、 その人が失敗を通じて何を見いだして、どんな「処方」を自らに施したのか、ぜひとも知りたいなと思う。

そういうのを書いてる人は本当に少なくて、それはやっぱり、「かっこわるいことはかっこわるい」という、 ある意味当たり前の価値観にみんな毒されてて、それを越えられない人は、 たぶんどれだけすばらしい体験を重ねた人であっても、魅力的な文章は書けない。

blog 文化が何か今までと違った側面もたらしたことがあるんだとしたら、 やっぱり「かっこわるいことのかっこよさ」、魅力みたいなものが可視化されたことにあるような気がする。

失敗の共有というか、かっこわるい自分を、自分も含めた周り中で笑うことで、 その経験をみんなで分かち合うやりかた。ほとんどの人は匿名だし、実世界でのお互いのつながりなんて、 たぶん一生ないんだろうけれど、だからこそやはり、「かっこ悪いことはかっこいいんだ」なんて、 もっと多くの同業者が、そんな価値観持ってほしいなと思う。