マナーのこと

病棟のちょうど真ん中、ナースルームというところは、普段からドアが解放されていたり、 新しく造られた病棟だと、最初から「壁」が存在しないところも多い。

病院という場所は、ほとんどあらゆる人間模様の集積地みたいな場所だし、そこで暮らす自分たちもまた、 聖人なんかとはほど遠い人間の集まり。ナースルームでやりとりされるのは、他の誰かに聞かれたら困る話題ばっかり。

病状のこと。治療のこと。あの患者さんのご家族には些細なことですぐ怒られるから気をつけたほうがいいだとか、 あの患者さんは「痛がり」で、ナースコール頻回だからどうにかして下さいだとか。

昔はそれでも、医療者は聖職者ということになってたからなのか、口が災い招くケースは少なかったような 気がするけれど、こんなご時世だから、今はもちろん、患者さんだとか、ご家族だとか、病棟スタッフの ちょっとした軽口は、しばしばとんでもない災厄を生む。

「マナー」は状況を歪ませる

どこの病院も、今はだから「マナー向上」に気をつけていて、話しかた講座だとか、 「患者さんに敬意を払っていきましょう」なんて頑張ってる。これは間違いだと思う。

マナーというのは、「医療者は聖職者」なんて、実情とかけ離れたステレオタイプに自らを 押し込むやりかた。「聖職者」から遠い軽口も、それでも貴重な情報を含んでるから、 これを「止めましょう」なんて教育しても、必要な情報は、マナー訴える誰かから、 見えないどこかでやりとりされる。

クソの山にバケツいっぱいのシャネルをぶっかけたところで、それがケーキに変わるわけもない。

そこに必要があって「ある」ものをなかったことにする、「マナー」みたいなやりかたは、 だからたいてい状況を悪くして、「ない」はずのものが見つかればトラブルは大きくなるし、 必要なものを隠さないといけなくなるぶん、必要な情報が、必要なタイミングで得られなくなってしまう。

病棟みたいな、働く側も、治療受ける側も、穏やかで落ち着いた状態なんかとはほど遠い場所で 必要なのは、「マナー」なんてきれいなやりかたではなくて、患者さんとか、ご家族が聞き耳建立てる目の前で、 「あの家族はクレーム多いから要注意」みたいな情報を、大声でやりとりできるようなやりかた。

自分たちの側から見れば「情報」であり、言われる側から見れば「悪口」でもあるそんな言葉を、 どちらの側から見ても「情報」として認識される、そんなしゃべりかた。

事実と判断とを分離する

Web 世間で日記をつけるのは、みんなが聞き耳立ててる中で会話するのにちょっと似ている。

「マナー」に気をつけて、当たり障りのない会話を続けたところで面白くないし、 書いている本人が、それではちっとも楽しくないから、続かない。誰かを罵倒したり、 裏付けの取れない憶測で記事を書いたりすれば、もちろんそれはトラブルになって、 トラブルは、たとえ文章を削除したところで、「あの人がそういうことをした」という事実は、 ずっと名前にくっついてくる。

長く発信を続けて、それでも一定数以上の読者を楽しませ続けることに成功している人達は、 たぶん事実と判断との切り分けが上手。事実はあくまでも事実として記述して、 それに対して「私はこう思う」みたいに、事実と判断とを明示的に分離するから、 刺激的なことを書いても、突っ込みどころを少なくできる。

我々は「狼が来た」と言う。
たが軍隊語では「狼らしきもの発見、当地へ向け進撃中の模様」となる。
彼が見たのは一つの形象であり、彼はその形象を一応狼らしいと判断し、
そしてこちらへ来ると推定したに過ぎない
そして対象はこの判断と関係ないから、人間かもしれないし、別方向へ行くのかもしれない
"軍隊語と日本語の違いは「事実」と「判断」が峻別されているという事"

これをやると、言葉とか文章が、すごく固くなって、流れが悪くなる。「みんなそう思ってる」だとか、 「常識的に考えて」みたいな言い回しが使えなくなって、会話に飛躍がなくなってしまうから、 書いてて何だかつまらない文章しか書けないような気分になるけれど、 慣れるとけっこう何とかなる。

全ての形容は「隔たり」になる

Web 世間で、誰かが日記に「あいつは頭が悪い」なんて日記に書いたら、 「あいつ」と名指しされた人は不快に思うし、人がたくさん集まるサイトなら、たぶん炎上する。

事実と判断とを峻別して、「私の目から見て、彼の行動は頭が悪く見える」なんて書いたところで、 問題はやっぱり解決しない。

「すごい」だとか「あたまがわるい」だとか、形容詞というものはベクトル量。 基点になる場所と方向、あと大きさが明示されて、形容を受ける側とする側、 お互いがそれを共有できていないと、解釈が様々に分かれてしまう。

見る位置が異なる人同士は、唯一「隔たりの大きさ」しか共有できない。

病棟では最近、細かいところでクレームをつけてくる人を、「事象の受け止め方にギャップが大きい」なんて 表現するようになっている。

こういうのはしょせんは言葉遊びには違いないんだけれど、「ギャップが大きい」まで言葉を解体すると、 「あの家族はクレーマーだ」とか、「あの家族は危険」という表現に残っている方向要素が、 ずいぶん薄くなる。例えば近い将来、病棟での会話だとか、患者さんとの会話だとか、 全て録音されて記録が残るようになったとき、「クレーマー」だとか「危険」という表現は、 あとから「どうしてそう判断したのか?」なんて突っ込まれる可能性がある。

「ギャップが大きい」なんて言いかたは、その言葉を発信した本人が、その場に居合わせた同僚と、 「正しいやりかた」を共有している限りにおいて、「ギャップが大きい」と名指しされた人達が、 自分たちが共有している常識が通用しにくいという情報を共有することができる。

目線の時代の会話作法

事実と判断とを明示的に切り分けて、お互いに基点の共有が不可能な形容詞を避けて、 「違い」の方向要素は、自らを取り巻くコミュニティにゆだねるようなしゃべりかた。

病棟みたいな「内」と「外」が存在しない場所でのしゃべりかた、情報共有のやりかたは、 お客さんに聞かれない「内輪」を想定できる「マナー」みたいなやりかたとは異なってしかるべきだし、 「内輪」の存在が前提になっている場所で使われるような言葉を、病院みたいなところに適用したら、 たぶん何らかの事故につながると思う。