学問の舞台設定

しっかりした地盤なしで成立する建物がないように、専門家が「学」を立ち上げるためには、 専門知識が実際に役立つための舞台設定が欠かせない。

砂漠戦に強い将軍がいたとして、その人が単純に「強い」という理由だけで艦隊を率いる立場に抜擢されても、 たぶん勝てない。将軍の「強さ」というのは、あくまでも砂漠という舞台があってこそ成り立つもので、 舞台が変わって、戦いのルールが変われば、その人がいくら名将であったとしても、その力を発揮することは難しい。

将軍の「強さ」、専門家の「専門性」みたいなものは、だから特定の舞台設定とは不可分なもので、 自らの知識を役立てるための舞台を定義できない学問は、それがどれだけ壮大な知識と技量とを集積していても、 肝心なところで役に立たない。

基礎のない建物はありえない

何か建物を造るなんてことを考えたとき、「基礎を作る」人達と、基礎の上に何かを立てる人達とは、 考えかたが異なるような気がする。

基礎を作る人達は、いろんな土壌を相手にする。建設予定地は山の中かもしれないし、 沼地だったりするかもしれない。ちょっと掘り返せば岩盤がむき出しになるような土地もあれば、 いくら掘っても粘土ばっかりで、ビル立てたら傾くような土地だってあるかもしれない。

相手は様々だけれど、目指すべきは「固くて平らな基礎」であって、その上に建てられるのが伝統的な寺社仏閣であろうが、 六本木ヒルズみたいな高層建築だろうが、建築家が基礎に求めるものは、多分そう大きく変わらない。

上物を作る建築家は、強度だとか予算だとか、いろんな要素を妥協しながら、顧客が求める何かを作ろうとする。 造られる建築物は、いろんな制限と折り合いながらも、建築家の能力が高ければ、たぶんそれだけ顧客の意志にそったものが出来上がる。

基礎を作り出す要素と、基礎の上に何かを建てる要素ととの区別をなくしてしまうと、たぶん建築という分野は、 「学」として成立しなくなってしまう。

「基礎」と「上物」との境界を無くす方向を目指してしまうと、その土地の状態そのものが、建物の姿を決定してしまう。 顧客の意志は、建物の姿をゆがめる「ノイズ」として排除されてしまうだろうから、そんな「学」には、たぶん誰もお金を払わない。

恐らくはどんな専門性、どんな学問にも、集積された知識を運用して、誰かの役に立てるための「基礎」、あるいは「舞台」となる ものが必要で、舞台装置を持たない学問は、それが役立つ「誰か」を設定できないから、「学」として成立し得ない。

医師が目指す「安定な状態」

たとえば外科医は、全身麻酔がかかった患者さんが手術台の上に横たわった状態を、「安定な状態」と定義する。 カテ屋さんにとっての「安定な状態」は、患者さんが消毒されてモニターつけられて、カテ台の上に乗った状態だし、 それが集中治療医ならば、患者さんはICUにいて、モニターと動脈ライン、下手すると透析用のブラッドアクセスなんかを 最初からつけられた姿を想像する。

みんなもちろん医師だから、患者さんがそうならなくても技量を発揮できる機会はあるけれど、「生き死に」に 関わる状態の患者さんを診るときには、まずは患者さんを「安定な状態」に持って行かないと、 自分の技量を最大にできない。

救急外来に不安定な患者さんが来たときは、だから超急性期は「陣取り合戦」みたいな雰囲気になることがある。 いくつかの科が呼ばれる。「ここで治療する」という選択枝はどこの科も想定してなくて、 みんな自分のホームグラウンドに患者さんを移動しようとする。そこで「安定な状態」を作り出してからでないと、 自ら責任もって働けないから。

医師にとっての「安定な状態」というのは、その医師が持っている能力の範囲内で、 患者さんの身体に起きたことを、最大限に見通しが良くできる状態。

患者さんは、もちろん助かることもあるし、不幸な転機をたどることもあるけれど、 「安定した状態」におかれた患者さんに起きたことは、その状態を要求した専門科は、 かなり詳しいところまで解説できるし、原因の見通しがいいからこそ、技量の範囲で対処もできる。

カテ室に連れてこられた患者さんは、心臓についての治療はできるけれど、その人がその場で吐血して、 いくら消化器科の専門医が呼ばれたところで、すぐに対処はできない。手術中の患者さんが急変して、 「心臓に何かありそうだから見て下さい」なんて循環器が呼ばれても、麻酔かけられてお腹開いた患者さんには 検査も出来ないし、やっぱりカテ室に運ばないと、何もできない。

生き死にに関わる分野は、だから専門知識を知ってるのとは別に、自分が働けるような舞台設定とは 不可分で、「どんな状況からでも舞台を作り出す」能力と、「舞台の上ですごいことをする」能力とは、 別個に磨かないといけないし、学びの方向みたいなものは、共通していないイメージ。

「舞台を作る」お仕事というのは、「診断」とか「状態把握」を行うもっと以前の段階、 そういうものは基礎の上に立つ「上物」の範囲であって、まずはそういう仕事を やりやすい状況に、一刻も早くたどり着くためのやりかた。

外傷医学はどうなのか

外傷医療の、やっぱり「緊張性気胸の対処」というものが、よく分からない。

見逃すと致命的になる。基本的な治療には絶対反応しない。「修行すれば」診断できるけれど、 診断確度はいいところ8 割ぐらいで、それすらも、たぶん慣れてない人には無理。

外傷医療のガイドラインは分厚くて、それが建築ならば、高層ビルだって建てられそうなぐらいに 様々な知見が集積されているけれど、知識の伽藍が依って立つ「基礎」は、2 割の確率で吹き飛んで、 基礎が吹き飛んだとき、それに対してどんなに立派な高層ビルが建ってたところで、やっぱりビルは崩れてしまう。

アメリカの外傷ガイドラインには、「分からなかったら両肺にチェストチューブを入れよ」という記載があるんだという。

アメリカの外傷医療は、だから「静脈ラインとモニターをつけられて、両肺にチェストチューブが入った患者」というものを 外傷医療の「安定した状態」と定義していて、この定義で行けば、緊張性気胸の患者は理論的に発生しないから、 医師は十分に安定した基礎の上で、自らの技量を振るえる気がする。

舞台設定を「患者さんにCT が為された状態」と定義してもいいし、 あるいは「輸液に反応しない血圧低下にはPCPSを入れよ」でも いいし、「基礎」の作りかたにはいくつかやりかたがあると思う。

どちらも問題あるし、お金かかるけれど、「修行して死ぬ気で頑張れ」というのは、 やっぱり学問の基礎にはなり得ない。このへんは、本来偉い人達がもっと考えてくれたっていいと思う。