「元気玉」の社会的有用性

「外傷がひどくて血が足りません。知りあいを当たって、A 型の血液を集めて下さい」なんて、 ご家族に協力を依頼できた時代は、あるいは医師-患者間のトラブルは少なかっただろうなと思う。 その頃はまだ、そこに集まった全ての人が、患者さんの治癒に貢献できたから。

重症の患者さんが運ばれてくる。治療だとか看護、書類仕事なんかを含めて、今は病院が全部やる。 ご家族はその間、待っていることしかできない。神様なんていなくなって久しいから、祈ることもできない。

「その場にいながら、貢献できることが何もないという状態」は、顧客を不安定な気分にさせる。 提供されるのは完璧なサービスだけれど、「何もしないで黙って待つ」に我慢できなくなった顧客は、 今度はきっと、そのサービスそれ自体を叩きはじめる。

悟空は幕引きに元気玉を使った

漫画「ドラゴンボール」の終盤、魔神ブウを倒すのに、悟空は「元気玉」を使った。

物語の設定上、あの技が最強ではあったんだろうけれど、地球にいる全ての人が悟空に協力しないと 成立しない、「元気玉」は、政治的にも合理的な選択だった。

物語のラストを少しだけ変えて、最後の戦いに「元気玉」を持ち出さないで、 悟空個人の力で戦いに決着をつけてしまったら、地球で待っている「普通の人」達は、 きっと主人公達に文句を言ったのだと思う。

「戦いのあおりを受けて財産を失った」とか、「死ぬかもしれないという恐怖を一方的に強要された」とか。 それは命懸けて戦ってたドラゴンボール世界の主人公にとっては、たぶん理不尽なクレームが殺到する。

彼らはいいサービスを目指してたんだと思う。

地球に対する脅威を排除するために、みんな頑張って修行した。 主人公達は強力で確実な「サービス」を提供できるようになったけれど、あまりにも強くなりすぎた。 あの世界ではもはや、「一般市民」には戦いに貢献できる要素がなくて、彼らは地球が吹き飛んでも おかしくないような戦いを傍観しながら、それでも待つことしかできない。

それがどんなに命がけの状況であったとしても、傍観者は退屈して、 自分にもできる関わりかたを探し始める。「元気玉」というのは、そんな傍観者に 「関わる手段」を提供して、主人公への支持を維持するための、優れた構造を備えた技だった。

ウルトラマン世界では、ウルトラマンだとかウルトラ警備隊だとか、一定期間ごとに星に帰ったり、 組織ごと解体したりして、市民が「飽きる」ことを防いでいた。

初代ウルトラマンが、ゼットンとの戦いを超えて勝ち続けていたのなら、 最後の強敵はたぶん、「一般市民の声」になる。 ウルトラ警備隊には「社会的責任」が求められて、壊れた建物の賠償請求が 行われたり、怪獣を倒すことに対して、愛護団体から非難の声が上がったり。市民の声は、 怪獣以上の脅威となって、ウルトラマンを苦しめたはず。

自分たちの仕事は最低限行いつつ、そこで働く人達が社会のインフラ認定される寸前で ウルトラマンは星に帰って、組織も解体される。しばらくしてまた怪獣がやってきて、 新しいウルトラマンが赴任して、サポート組織もまた作られるけれど、たまに昔のOBが天下ってたりする。

サービスの受け手を「観客」にしない、当事者意識を保ち続けるためのやりかたとして、 「交代するウルトラ超人」というシステムは、上手に機能しているように見える。

道徳のこと

医療機関が包括的なサービスを目指す方向に舵切ったのが、なんか間違えだったのだと思う。

治療とかリハビリ、身の回りの世話だとか退院先の施設探しだとか、利用可能な医療補助の案内だとか、 今の病院は、患者さんに関わる全てのものを提供できる。サービスを提供する医療機関の側も、 もちろん患者さん達もまた、そんな「完璧なサービス」を志向して、今までその方向で物事進めてきたはずなのに、 「現状に満足している」なんて声は聞こえてこない。

病院が提供できるサービスが不完全だった昔、たとえばそんな不完全さを補完する機能として 「付き添いさん」なんて仕事があった。入院すると、どこからともなく付添人を派遣する会社の人が 病棟にやってきて、日当いくらか支払うと、患者さんの身の回りの世話だとか、食事の介助だとかを手伝ってくれた。

あの状態は、たぶん誰もが「通過点」だと思ってて、そのあとしばらくして「完全看護」なんて言う考えかたが 提唱された。看護師さんの数が増えて、「付き添いさん」の仕事は病院から無くなったけれど、 患者さんが病院に入れるクレームの数は、サービスが「良く」なって行くにつれて、もしかしたら増えた。

サービスが不完全だった昔、正義とか道徳とか、訴える人少なかった。

サービスよくなって、患者さんだとかご家族だとか、付きそう人どうしようだとか、 血液どうやって集めようだとかそんなこと考える必要が無くなったら、今度は「医師の物言いが気にくわない」だとか、 おむつ交換するときに「患者さんに対する敬意が感じられない」だとか、正義文脈のクレーム増えた。

パズル生産力と系の安定

たぶんパズルが無くなると、系が不安定化してしまう。

サービスが安定に、包括的になりすぎてしまうと、 そのサービスはインフラ認定されてしまって、顧客は当事者から傍観者へと変貌する。やることが無くなった 顧客は、何か別のパズルを探して、俺様ルールの道徳ごっこに精を出す。サービスには、 能力以上の完璧さが求められるようになって、細かな瑕疵だとか、サービスとは無関係な争いの調停だとか、 サービスを提供する側が本来意図していなかったようなことが、クレームになって飛び出してくる。

「完璧なサービス」を目指す態度それ自体にどこか誤謬があるんだと思う。

「みんなが貢献できる」状態、サービス黎明期の、不安定さを 顧客側の工夫でどうにかしていたような、インフラが不安定だからルールもなくて、 みんなが「穏やかな無法地帯」を受け入れざるを得なかった状態というのは、 恐らくは通過点なのではなくて、そこがゴールなんだと思う。

パズル生産力の上限は、そのサービスの規模を決定する。

包括的な、「完璧なサービス」は、あるいは生産性が高いのかもしれないけれど、そんなサービスはたぶん、 顧客側から見たパズル生産性が下がってしまい、系が不安定化して、それ以上に大きくなれない。

「付き添いさん」が病院にいた昔、たぶん病院というサービスが選択すべきだったのは、 付き添いという業界を公認することと、役割をきちんと切り分けて、「そこから先は病院じゃなくて別の業界の仕事」と 宣言することだった。

病院を中心にした系が、安定したまま大きくなっていくためには、たぶんパズル生産性を維持するやりかた、 問題を切り分けていく態度が必要だった。付き添い業務が不十分ならばそこを切り離して、 たとえばリハビリテーションに対する需要が高まるようならそこをまた切り離して、 いくつもの「業界」を独立して生み出しながら、自分たちは病気の治療にリソースを集中していくやりかた。

今からそれができるのかどうか分からないけれど、病院がこれから先、いくら「完璧」目指しても、 その先に顧客満足は見えてこないと思う。