泥沼パターン

叩かれて反論して、いつまで経っても議論がかみ合わないのに、 気がついたら一方的に勝利宣言されて、何だか世間では自分が「負けた」 ことにされてる。

そんな理不尽の、パターンと対処。

見える「世間」はものすごく狭い

それはコメント欄であったり、ブックマークに寄せられたコメントであったり。

実際にサイトを見て下さる人は、たぶん数万人の単位でいるはずけれど、 その人達が文章を読んで、実際のところどう思っているのか、文章を書いた 側からは、「コメント」を通じることでしか、把握することができない。

自分は「こう」思われているなんて、作者の印象は、だからコメントを 残したり、ブックマークを残してくれる、ごく少数の「世間」が決める。

世間はすごく狭い。

自分がこの場所で文章を書く。たまにほめられたり、叩かれたりする。

時々「匿名ダイアリー」みたいなところでも書く。匿名だから、 いつもと同じ立ち位置で書くときもあれば、正反対の立ち位置で、 「表の自分」を叩くようなことを書いたりもする。

ネット世間で一応「人格」みたいなものを認められている、表の自分と、 一応正体がばれていなければ匿名の、匿名ダイアリーの自分と。 書いてる人間は「違う」のに、叩く人も、ほめてくれる人も、IDを見ると、ほとんど変わらなかったりする。

分野をまたぐ「行為が好きな人」

もっと大きなサイトになったらまた違うのかもしれないけれど、 自分から見えている「世間」というのは、だいたい100人ぐらい。 その中の20人ぐらいが「叩き」に回って、残りは時々ほめてくれたり、 メモ代わりの引用をしてくれたり。

ネット世間には、医療だとか軍事だとか、「分野」に興味を持つ人と、 叩きだとか哄笑だとか、「行為」に興味を持つ人とがいる。

行為それ自体が興味の対象となっている人は、分野の壁を超えてくる。 叩かれて、泥沼になってるサイトを見ると、うちなんかとは興味の分野が 全く違うのに、同じような人達が、同じような立ち位置で、全く違った 分野の文章を叩いてる。

叩かれてるときは、何だか世間の半分ぐらいが「敵」になったように感じるんだけれど、 実際起きていることは、たぶんいつもの人達が、いつものように集まって、 その日見つけた叩きやすそうなサイトを叩いてる、そんなイメージのほうが近いのだと思う。

あの店の皿は欠けている

客:「見ろ、この料理屋の皿は欠けている」
店主:「料理食べてよ…」

面白い文章が好きな人と、瑕疵のない文章を要求する人とを分けて考えないといけない。

料理店で料理を出す。「料理がまずい」という人とは、それでも会話が 成立するし、そんな人が「あそこの料理はまずい」なんて声あげて、 それ聞いて集まったお客さんの中には、「けっこう食べられるよ」なんて人も 出てきたりする。料理それ自体を論じてくれる分には、それが賞賛であっても 叩きであっても、文章書く側としては、すごくありがたい反応。

料理のことはおいといて、「皿にひびが入ってた」なんて人を相手にするのは、 すごく大変。「皿はおいといて食べてよ」なんて水向けても、 今度は「客に割れた皿を出すとは何だ!」なんて叫ばれて、しまいには 「あの店は割れた皿を出す」なんて評判立てられる。

「料理」食べに来るんじゃなくて、「割れた皿」を見るためだけに、 料理店の門には大勢の人が殺到する。大勢集まって、「たしかに割れてる」 「割れた皿出すとか最低だ」なんて、叩かれる。

料理は最初から無視されて、店主が聞く声は、「皿」の話ばっかりになる。

このそうめんにはコクが足りない

客:「このそうめんにはコクが足りない」
店主:「つけ麺屋さんに行って下さい…」

軽い文章書こうと思って、軽いもの書く。「軽さ」に反応があって、 それなりに反響が来る。そこまでは良循環。

ところが「このそうめんにはコクが足りない」みたいに、そもそも 文章が想定した役割を超えて、すごく大きなもの求める人がたまにいて、 やっぱり困る。

それは「子供達に正しい教育を」みたいな正論が好きな人だとか、 何か信仰している「正義」があって、全人類がその正義のもとに かしずくべきだなんて、普段から「活動」を続ける人達。

話の枕に、不謹慎な話だとか、その人達の「正義」にかするような 話題を持ってくると、そのあとが大変。軽い気持ちで日常雑記を 書いたつもりが、いつの間にか世界人類に戦い挑む文章として論じられて、 「こんな話題を扱っているのに不勉強だ」とか、「あいつは全体主義の手先だ」 とか、話はどんどん大きくなっていく。

こんなものはフランス料理と呼べない

客:「こんなものはフランス料理と呼べない」
店主:「あなたに出したのはラーメンです」

ある分野の「権威」だという人達はけっこう多い。勉強してる人達。 たくさん本読んでて、サイト見ると、たいてい別の誰かを叩いてて、 叩く根拠に、いろんな本を引用してる。うちだって文章量は 多いほうだけれど、引用文だけでそれぐらいあって、文字ばっかりで 圧倒される。

本の威力で誰かを叩く人達は、特定分野の物差しで叩く対象を測定して、 「この分野から見て、これは不完全極まりない」だなんて、相手を叩く。

そもそも想定している分野が全然違うんだけれど、「分野違いますから」 だなんてその人に反論すると、件の「引用の山」が待っている。

頑張って読んで、やっぱりそれでも何言いたいのかよく分からなくて、 「分かりません」だなんてコメントすると、「なんて馬鹿なやつなんだ」なんて 勝利宣言される。

この本を読んでくれれば分かると思います

読者:「あなたは間違っています。この本を読んでいただければ、それが分かると思います」
筆者:「4700円払ってその本を買えと…?」

「あいつは馬鹿だ」と叩くぐらいなら、「こうすれば馬鹿じゃなくなる」 やりかたを教えてくれると、本当にありがたいのだけれど、 叩く人達は、「どこが馬鹿」とか、「ここが間違ってる」とか、 絶対に教えてくれない。

それでもしつこく食い下がると、今度は「この本を読んで下さい。分かるはずです」 だなんて、本を勧められる。

「読書の勧め」は3重のトラップになっている。

その本を読まなければ、「不勉強を棚に上げて強弁する奴」だなんて、 レッテルを貼られてしまう。

本を読んでも、その人が言う「分かる」に到達できる可能性なんてゼロなんだけれど、 読んだら読んだで「あなたとは、どうも前提が共有できないようですね。残念です」なんて、 なぜだか相手に有利な終結宣言を出される。

万が一、相手と同じ「分かる」境地に到達できたとして、本の世界は体育会。 「おまえよりも先にこの本に気づいた俺様勝ち組」だなんて、手下になること強要される。

「読書の勧め」につきあうのはだから、時間があってもお勧めできない。 本当に分かっている人ならたぶん、「こうすればいいよ」だなんて解決策を 教えてくれて、その上で「もっと理解したいならこれ」なんて、いい本を紹介してくれる。

本の使いかたとしては邪道もいいところだけれど、目の前に「泥沼」が口開けて待ってるのを見たら、 「まずはこの本を読んで、前提を共有していただかないことには、建設的な議論はできないと思います」なんて、 クソ分厚い洋書の定番本を示して逃げるのが、たぶん一番簡単なんだと思う。

相手の人は勉強が好きで議論が好きで、あるいはもしかしたら、本当に良心から泥沼コメント 残してくれたのかもしれないけれど、泥沼に足を踏み込むと、やっぱりそこは泥沼にしかなり得ない。

お互い住み分ける方法考えたほうがいいと思う。