「要するに」が社会を滅ぼす

「国家の運営」みたいな複雑なものを、指導者の人が間違った単純化に走って しまうと、虐殺が起きたり、あるいは単純化の犠牲なる人が増えるんだと思った。

伝記を読んだ

「ぽる・ぽと―ある悪夢の歴史」という、カンボジアの独裁者を扱った 伝記を読んだ。ポルポトは、虐殺者などではなく、ただ単純に、 「人を生かすことに対して無能な人物」に過ぎなかったのだ、という 立ち位置の伝記。

内乱に勝って、カンボジアを支配したクメールルージュは、平等で、 不正のない社会を作り出そうと努力して、努力の結果として、多くの人が亡くなった。

革命政府と対立していた、「革命に目覚めていない」人達は、首都から 田舎へと追放されて、「革命家としての教育」を受けることになった。 飢えと労働。カンボジアに革命を起こした人達と同じ、あるいはそれ以上の 苦労を味わうことで、革命の精神に目覚めてもらうみたいな。 革命に目覚めた人が耕す畑からは多くの作物がとれることにされて、 実際にはもちろん作物は育たなくて、多くの人が餓死した。

革命は「純粋な」人がやらないと上手くいかないらしい。

革命政府が政権取って、首都の住民を追い出したり、「お金」というものを 国から追放したり、社会を平等に、シンプルにして行くほどに国は 傾いて、それは「革命家として純粋でない」人達のせいになった。

「純粋でない」と名指しされた人は、やっぱり田舎送りになった。 もちろんそこでは「教育」が行われて、過酷な環境の中で、また人が亡くなった。

食べるものがない。道に椰子の実が落ちている。これは食べられる。 でも道に落ちているものは、国家の所有物。これを食べてしまうと、 その人は「純粋」でなくなって、後が無くなったその人は殺される。 これを食べなければ、いずれ飢えて死ぬ。

みんな亡くなった。

「平等」はけっこう怖い

平等が目指すべき目標になった、シンプルな社会からは、逃げ場が無くなってしまう。

クメールルージュ時代のカンボジアのやりかた、飢餓と強制労働とを通じて、 国民を「純化」「教化」していくやりかたというのは、なんだか 洗脳の手法を利用する宗教カルトを思い出すけれど、カルト団体には 「階級」みたいな複雑な構造があって、もしかしたらそんな仕組みは、 一種の安全装置として機能している。

カンボジアで「純粋じゃない」なんて指摘を受けた人には、再教育が 待っている。革命政府では、純粋な人と、餓死寸前まで苦労した人とは だいたい同じだから、そんな人から「純粋じゃない」なんて叩かれたら、 その人以上の苦境を乗り越えて、自らの純粋さを証明しないといけない。

革命政府の建前は「みんな平等」。「純粋じゃない」なんて指摘された人には、 だから社会のどこにも逃げ場が無くて、教育を受けて殺されるか、 殺されて「最初からいなかった」ことにされるか、いずれにしても 無難な選択枝が残されてない。

階級制度とか教育社会というのは、もちろん必ず「負け組」を生む やりかただけれど、「負けられる」というのことそれ自体もまた、 平等に殺されるよりはまだいいのかもしれない。

怪物はいなかった

虐殺者として紹介されることの多いポル・ポトは、それでも「怪物」では 無かったのだそうだ。あの人はあくまでも、「人を生かすのに無能であった」 だけであって、「人を殺すのに有能であった」わけではないのだと。

クメールルージュが行ったことは、「靴に合わせて足を切る」なんて 描写がなされていた。足が切られて、たしかに社会は大出血したけれど、 「足にあった靴を作りたい」なんて思いそれ自体は、 決して悪意から生まれたものではなくて、あれは虐殺ではなくて、 あくまでも無能が生み出した「事故」なのだという。

歴史には何人もの「怪物」がいて、ひどい虐殺とか、残忍な戦争だとか、 それらは全て、その人が「怪物」だったからなんて考えかたはシンプルで 分かりやすいけれど、やっぱり「怪物」なんてきっと少ない。

そのときそこにあったのは、そうならざるを得ない「状況」であって、 「怪物」と名指しされた人達は、あるいはその状況を止める能力を持たない、 「怪物になれなかった」人達なのかもしれない。

本当の怪物は、むしろ目に見えない。

歴史上、同じような状況におかれた 社会はきっとあって、同じ状況におかれてもなお、その社会を平凡に、 まるで状況変化なんて気がつかなかったかのように運営した人物は、 もしかしたら本当は「怪物」であって、そこに怪物が居合わせなかったら、 その国には虐殺が起きたのかもしれない。

複雑なものを複雑なまま理解するやりかた

社会とか国家みたいな、極めて複雑な物事を「要するに」で理解しては いけないのだと思う。

権力を持った指導者が、「要するに」で社会を間違って単純化して とらえたときに、たぶん「靴に合わせて足を切る」現象が発生して、 それが極端に走ると虐殺になる。

複雑なものを、複雑なまま処理するやりかたをしないといけない。

もちろんそれを個人でやるのは不可能で、だから「いい独裁者」が 統治するコミュニティは、それが小さな時には気持ち悪いぐらいに 上手くいくけれど、組織が大きくなる程に制御は難しく、 近似によって犠牲になる人の数は大きくなって、最後は収拾がつかなく なってしまう。

資本主義みたいな競争社会は、勝ち抜いていくためには、みんなが 頭を使うことを強要される。みんなが頭を使うから、社会に投じられる 思考リソースは、少数のリーダーが全てを回す社会よりも圧倒的に 多くなる。その振る舞いは複雑で、だから資本主義は「最低だ」なんて 言われるけれど、それでも社会制度の中では「最良」なんて評価も受ける。

選ばれた少数の執行部が回す組織は、必ずといっていいぐらい、 「サヨク」的だなんて叩かれる。「団結」だとか「平和」だとか、 「サヨクっぽい」言葉の裏には、たいていどこかに平等思想、 大多数のメンバーに思考停止を強要する何かが隠れてる。

たぶん社会の「よさ」なんてパラメーターは、「量」が問われる。 質の高い少数よりむしろ、やっぱりたぶん、たとえ質は劣っても、 たくさんの思考リソースを投じられる仕組みの方が、 その社会は「いい」ものなんだと思う。