コミュニティにおける祭事というもの

コミュニティにおける正義には、「成果が最大」、「面子の損失が最小」、「嫉妬が最小」の、 3つのレイヤがあって、上位レイヤで正しいことは、必ずしも下位レイヤでの正しさを保証しないし、 上位レイヤで決定されたことは、しばしば下位レイヤでひっくり返される。

「経済」が政治と祭事を上書きした

「リスク」だとか「経済」といった考えかたがなかった昔、それこそ平安時代ぐらいの 大昔は、たぶん「政治」と「祭事」というものが、コミュニティの判断を左右した。

時代のどこかでたぶん、「成果」という考えかたが入ってきて、経済は、数字で測定可能なものだから、 説得の道具として便利な「経済」という武器は、「政治」という、従来の実務レイヤを上書きする形で、 コミュニティの行く末を判断するための道具として、便利に使われるようになったのだと思う。

お祭りというものは、野蛮で非科学的なものだから、「経済」という考えかたが導入されて、 恐らくどこかで、「祭事」のやりかたが失われて、今たぶん、いろんな迷走を生んでいる気がする。

面子で成果をひっくり返す

上位レイヤで「正しく」認定された判断は、それに反対する人たちが下位レイヤを支配することで、 簡単にひっくり返せる。

たとえば「政治」という道具は、そこに集まった人の面子を可視化してみせることで、 成果の最大化を図る、「経済」的に正しい判断をひっくり返すことができる。

経済的に正しいやりかたは、その決定で誰かの面子が潰れるのなら、それが実行される可能性はなくなるし、 たとえ大赤字を抱えた自治体でも、県庁の○○局長が退職するときには、「はなむけ」としての「ハコ」一つ、 何億円もする建築物にお金が支払われて、集まったリーダーは、たいてい誰も、それに反対しない。

昔の政治家が得意だった「根回し」だとか「腹芸」というのは、意志決定にかかわる人たちを見極めて、 かれらの「面子」を可視化して、ある決定がなされたときに、それが誰の面子を立てて、 誰の面子を失わせるものなのか、それを予期して、操作するための技術。

個人的に反対したいような決定があったなら、「それが実現すると○○さんの面子が潰される」方向に 誘導することで、経済的に正しい決定は、政治レイヤでひっくり返せる。昔の自民党、「妖怪」なんて言われた 人たちには、こういう技術が受け継がれてきたのだろうと思う。

世論という神様と祭事

弟鳩大臣が結果として辞任して、あの人の判断は、経済的にも、あるいは政治的にも、 どうもあんまり正しくないみたいなのに、あの人に対する支持は増えて、自民党の政治家も、 総理大臣よりも、むしろ弟鳩大臣を支持しているように見える。

何もかも間違っている振る舞いを、「罷免された」という犠牲を用いることで、強引に正当化する、 今弟鳩議員のまわりでおきていることは、「祭事」なんだと思う。

祭を執り行っている人に、政治レイヤ、あるいは経済レイヤから、いくらその間違いを指摘して、 その人の振る舞いを叩いて見せたところで、なんの効果もないばかりか、叩いたその人が支持を失ってしまう。 叩く側の人が、どれだけ分かりやすく、どれだけ正当な論理を展開したところで、 恐らくはその正しさだとか、分かりやすさは、かえって世論の反発をまねく。

「祭事」というのは、集団になった人、「世間」とか「世論」、「空気」みたいに、 個人と個人の境界が薄れた、あやふやな固まりになった人の群れを操作するための技術で、 それはもう、理屈でどうこう、というものではなくて、もっと獣っぽい、「血」だとか「炎」みたいな、 そんな象徴を利用したやりかた。

扱い方は難しいし、個人が融合して、荒ぶる神様みたいになった集団は、何を考えているのか、 何が正解なのかよく分からないけれど、「祭」を上手く執り行うことができたなら、 その人はたぶん、天下を取れる。

その代わり、祭事が間違って執り行われると、その人は大きなダメージを受けるだろうし、 世の中収拾がつかなくなってしまう。弟鳩議員が今行おうとしている祭りは、 どちらかというと、期せずして「祭」が始まってしまった、間違って執り行われた祭であるように思える。

祭事をエンジニアリングすべきなんだと思う

「政策通」だとか「経済通」なんて言われる議員の人たちは、上位レイヤのやりかたに優れた代わり、 昔の政治家なら誰もが持っていた、祭事レイヤでの振る舞いかたを、忘れてしまった。

ちょっと昔の田舎の選挙は、庭先に飼い犬の生首が投げ込まれたりだとか、 まっすぐな道なのに、なぜかハンドル操作を誤ったダンプカーが民家に突っ込んだりだとか、 血なまぐさいイベントがつきものだったけれど、ああいうのにも「作法」だとか、 「意味」みたいなものがあって、そういう未開民族みたいなやりかたが、祭事の作法なんだと思う。

いわゆる「世間」、あるんだかないんだか分からないのに、力だけあるあの存在は、 やっぱりどこかのタイミングで、「血」だとか「涙」、「炎」みたいなものを見せないと、 その人に「本気」を見出さないような気がする。

「言葉」という、政治経済レイヤでしか通用しない道具をいくら上手に操ったところで、 世間の空気というものは、それが優れていれば優れているほどに、むしろその人に対する嫉妬が出てきて、 正しいはずのその言葉は、祭事レイヤでひっくり返される。

恐らくは、世間の空気という、荒ぶる神様を起こさないように、不安定な祭事レイヤの上で、 政治的、経済的に正しい判断を粛々と遂行するのが正しい政治家なんだろうけれど、 一発逆転を狙って、正しい知識も持たないままに、祭事レイヤに潜ってちゃぶ台をひっくり返そうとする人が 出てくると、世の中がめちゃくちゃになる。

そういうのは、村どうしのいさかいに巨神兵を持ち込むようなもので、 よっぽど慣れている人でもなければコントロールできるわけがないし、 首尾よく相手を焼き尽くしたところで、もうその場所には人が住めなくなってしまう。

昔テレビでやっていた、中国最強の格闘家を決める大会では、お互い戦って勝ち抜くのはあくまでも予選であって、 決勝戦になると、格闘家はみんな着飾って、笑顔で歌ったり、ダンスの腕前を競ったりしていた。 K-1PRIDE GP みたいなものを想像していたから、肩すかしもいいところだったけれど、 「単なる強い人」と「英雄」とを分けるのは、あるいはそういうところ、強さというレイヤの下にある、 世間の空気がその人を後押しするための祭事、英雄は、そういう方面にも長じてないと、英雄たる資格がないのかもしれない。

「世間の空気」というものは、扱いを間違えると荒ぶる神となって、 上位レイヤで正しく決定された何もかもを、見境なく食いつぶす。

神様を上手にいなして、もといた場所に帰っていただくのが「祭事」の作法なら、 そんなやりかたは、やっぱり政治に携わる人なら、誰もがマスターしておいてほしいなと思う。