検査に対する富豪的態度

たとえばCTスキャンのデータ、人体の、何十枚もの「輪切り」写真から、 あらゆる異常を探し出すためには、病気に関する知識、人体の解剖に関する専門的な 知識は欠かせない。

ところが「気胸の有無」を調べるためにCTスキャンを切ると、そこに気胸があるのかどうか、 写真を見れば、異常は誰の目にも明らかで、診断を下すのに、もはや医学知識もいらない。

先入観を持たずにデータに当たって、そこから可能な限りの情報を引き出そうとする態度というのは、 人体から取り出せるデータがまだまだ少なかった昔、「より多く読める」ことが「よさ」につながった 時代を、悪い形で引きずっている気がする。取り出せるデータが増えすぎた今は、むしろデータを「雑に」扱う態度、 膨大なデータを、「いい結果」を得るために利用するのではなく、 むしろ「手を抜く」ために、今までと同じだけの成果を、より少ない手間、 より少ない人的リソースでそこに到達するために、利用すべきなのだと思う。

検査が貴重だった昔

昔の検査は、貴重で大切なものだった。CTスキャンだとか、血液検査を一項目だけ 提出するのに、誰かの「顔」を立てないといけなかったり、目の前の機械は空いているのに、 申請書を書いてお願いしないと、機械を動かしてくれなかったり。

検査というものは、それを一度使うなら、そこからあらゆるデータ、 あらゆる異常所見を絞り出さないと、なんだかもったいない気がした。 少ないデータから、たくさんの意味を引き出すためには知識が必要で、勉強しないと知識は 得られなかったから、検査はやっぱり、専門家のものだった。

中央検査室という組織構造だとか、最近のCTスキャンみたいな検査は進歩して、 今は誰かの「顔」を気にすることなく、クリック一つ、チェック一つで、研修医でも、 莫大な情報が簡単に手に入るようになった。データの量は、今度は多すぎて、 その中から全ての異常を読み出すためには、やっぱり専門家の力が要った。

富豪的なやりかた のこと

莫大なCTスキャンデータからあらゆる異常を拾い出そう、という態度は、 検査データがありがたいものだった時代の、貧乏くささを引きずっているような気がする。

検査に対して「富豪」的な、膨大な検査データを前にして、 それを全然ありがたがって見せない態度を取る文化というのは、 たとえば聴診器で丁寧に診察すれば診断できるような病気に対して、 あえてCTスキャンを切ってみたり、血液生化学検査のセット採血みたいな、 「面」のデータが得られる検査をとりあえずオーダーして、話を聞けば診断できるような病気を、 あえて検査に頼るようなやりかた。

莫大なデータを丁寧に評価すれば、もちろんいろんな異常が見つかるのかもしれないけれど、 富豪的なやりかたは、そんなデータを、特定の症状から考えられる、 ある病気の有無を評価するためだけに用いて、残ったデータは、見ないで捨てる。

せっかくのデータを生かさないで使い捨てにする、富豪的なやりかたは、無駄が多いその代わり、 人間の負担を最小にする。

問診だとか、聴診は大変だし、それを行う人間の訓練が不十分だと、間違いも多い。 富豪的なやりかたは、患者さんの症状を聞いたら、あとは検査にチェック一つ入れるだけだから、 人間がどれだけ無能であっても、同じ結果にたどり着ける。電気代だとか、試薬代はかかるけれど、 人間側の負荷だとか、ばらつきは最小にできる。

ていねいに診察して、あやふやな答えに訓練で精度を上げるやりかたは、たしかにお金がかからないけれど、 CTスキャンの「ありがたさ」に、人間が負けているような気がする。

診察なんてしなくても、CTスキャン一発で、ほぼ100%確定診断できるケースはたくさんあって、 特に特定の病気を想定して、その有無だけを判断するような使いかたをする限り、 CTみたいなたくさんのデータをもたらしてくれる検査は、人間側に足りない知識を補ってくれる。

量が質に転化する

正しい先入観を持って使われた莫大なデータは、人間の知識を補完して、 その人に、実力以上の診断能力をもたらしてくれる。

使う目的があいまいである限り、最近の検査の、莫大なデータ量は、単なる「量」であって、 質的変化が生まれない。

ノーヒントで「異常の有無を診断してください」みたいなオーダーをすれば、 放射線診断の専門家ですら、たくさんのCT画像の中から、異常を全て発見するのは難しい。 目的のあいまいな依頼に応えるためには、「質」の担保を人間側が行う必要があって、 データの量が増えたなら、負担はそれだけ増えて、質は低下してしまう。

ところが目的を絞った状態で、たくさんのデータを目の前にすると、データの量が、診断の質に転化する。

  • 気胸の有無」を診断するのにCTスキャンをオーダーすると、解剖の知識がなくても、 誰にでも、肺がしぼんでいることが診断できる
  • 今のCTは、患者さんの画像データを筋肉だけの3次元模型に再構築して、リンパ節のデータだけを、 そこに重積できる。癌に関する知識、外科の知識が一切なくても、 「このリンパ節が腫れてるから切除しましょう」なんて方針が、 今では誰にだって下せるようになっている

自分たちは昔、「先入観を持つな」と教わった。データに対して先入観を持ってしまうと、 全ての異常を見いだすことができないから、と。

これからはむしろ、健全な先入観を持って、データに対峙すべきなのだと思う。

ある症状の患者さんを見たら、その症状から致命的な経過をたどりうる病気はいくつかに限定される。

まずはそれを見つけるためだけに、目的を限定してからデータに対峙すれば、データの量は質に転化して、 恐らくは人間の足りない知識だとか、集中力を助けてくれる。

莫大な知識を持って、わずかなデータからできる限りの意味を引き出すのが昔のやりかたなら、 莫大なデータ量に、先入観で絞り込みをかけることで、属人的な知識とか、 判断力の追放を試みることが、これから目指すべき方向なんだと思う。