美的感覚が逆転するとき

相転移」という現象が面白い。環境を決定するパラメーターの変化は常に連続的で、 ゆっくりとしたものなのに、表面に現れてくる変化は劇的。昨日まで何も変わらなかった 日常の連続が、ある日を境に全くの別世界になるような。

技術が成熟して、同じ事をやるのに要するコストはだんだんと安価になって。 成功が重なり、それが成果でなく当たり前のことになり、失敗したときのコストばかりが 加速していく昨今。

たぶん、技術が成熟してくるどこかのタイミングで、「その問題に誰が取り組むのが最善なのか」 を論じるコストが、「その場で使える全員に、同じ問題に取り組ませる」コストを上回る 時が来るのだと思う。

問題の取り組みかたは真逆になる。それまでは、問題を慎重に吟味して、 「最善の誰か」を選んで、その人が問題に取り組む。技術が成熟して安価になると、 「そのへんにいる技術者全員に同じ問題を放り投げて、出来上がった成果の中から、 一番よさそうなものを採用する」やりかたを行っても、そんなにコストが変わらなかったり、 もしかしたらかえって安上がりになる。

発注する人が何も考えなくていい分、後者のやりかたのほうが、 結果が出るのは圧倒的に早い。その技術領域に「競争」が保たれているのであれば、 変化は劇的なものになるかもしれない。

プロセッサーのこと

以下しばらく、適当な理解の上にうろ覚え。間違いのご指摘をいただければ幸いです…。

コンピューター神の一人、D.クヌースプロセッサーを設計する仕事をしていたとき、 一つの計算に対して、CPU 内の全ての計算機を動作させたときのほうが、 必要な計算機だけを動作させたときよりも、動作が圧倒的に速かったことに気がついたのだという。

CPU 内には、乗算器であったり、加算器であったり、無数の計算ユニットがあって、 2つの数を足したいときには もちろん加算器だけを動作されればいい。ところがこのやりかたには問題があって、加算器だけ 動かして、乗算器に「お前は休め」という命令をくっつけるコストが莫大になってしまって、 速度が上がらない。

「計算機的に正しいやりかた」は、2つの数が入力されたら、とりあえずCPU内の全ての計算機が 計算プロセスを走らせる。出力には加算を行った結果、乗算を行った結果など、 いろんなデータが出てくるけれど、もちろん必要な結果以外は全て破棄される。 一つの刺激でものすごい数の脳細胞が働く、人間の脳にどこか似ている。

こんなやりかたをすると、必要な計算を行った以外の計算機は全て無駄足を踏むのだけれど、 計算のスピードは圧倒的に速くなって、結局プロセッサーを停止させる命令は 組み込まなかったのだという。

道徳的な美しさと計算的な美しさ

門外漢から見ると、こんなやりかたは無駄が多くて、何となく「美しくない」。

どんな正しさが美しいと感じられるのか?。

たぶんこれには一般解がある。

技術の黎明期には、もちろん発想の正しさ。技術がまだまだコスト高で、 その技術を遣っていること自体が売りになっていた時代には、たぶん美しく見えたのは、 プロセスの正しさ。 技術がもっと進化して、それがあって当たり前になってしまうと、 たぶんプロセスの正しさなんか評価されなくなってしまって、「結果の正しさ」こそが美しいと 評価されるようになる。

プロセッサーを設計する人達、あるいはプログラムを組む人達にもきっと美的な感覚というものが あるのだろうけれど、自分達の成果物に対して、「道徳的な美しさ」と「経済的な美しさ」とが コンフリクトおこすことはないんだろうか?

医療の分野なんかだと、たとえば抗生物質の選択。

自分達が研修医だった頃は、「正しく診断して、正しい抗生物質を使いましょう」なんて教わった。

熱が出ている。状態も悪そう。とりあえず、何でもいいから抗生剤使いたい。 こんなときに「とりあえず」なんてやったらむちゃくちゃ怒られて、 まずは話を聞いて診察をして、それから検査やら、培養やら、グラム染色やらを一通り行って、 それからはじめて適切な抗生物質を考えて、点滴をする。大体2 時間。

時は流れて、「細菌は待ってくれない」なんて当たり前の結果が論文に乗っかって、 今ではなるべく早くに抗生剤を使いましょうなんてガイドラインに書かれるように なったけれど、「正しいやりかた」の手順は昔のまま。

自分だって「正しいやりかた」のほうを美しいと感じるセンスが残っていて、 挨拶もそこそこに抗生剤落として、それから考える自分のやりかたは、 やっぱり「汚いやりかた」なんだと思ってしまう。いつかこれが主流になると信じてるけど。

あいまいなものをあいまいに処理するやりかた

物事を前に進める「科学」と、科学者が作った成果物を実世界に応用した「技術」と。

技術はきっと、「扱う問題の複雑さ」と、「問題を解決するのに必要な理解の深さ」で いくつかに分類できる。

医療なんかはたぶん、問題は常にあいまいで、問題の解決には、もしかしたら 医学に関する深い理解は必ずし必要としない。

あいまいなものをあいまいに処理する場合、それを確実な結果につなげるためには、 早さを重視しないといけない。あいまいな問題は、時間と共にその形を変えてしまうから、 時間をかけて「本当に正しい答え」を見つけたところで、それを適用する頃には、 問題の形が変わってしまう。

「深く正しく考えて、正しいことを行う」やりかたは、道徳的には正しく、美しいけれど、 結果の確実さだけを評価する立場からは、そのやりかたは正しくもなければ美しくもない。

「正しいやりかた」を疑い続けること

プロセスに価値を見出さず、結果に価値を見出す立場。 医療なんかだと、診察も、診断も、それどころか病気をおこした原因にすらも価値はなくて、 意味を持つのは治療手段のみ。

  • 同じ治療で治癒する病気は、そもそも疾患名を分ける意味はないし、 診断をつける意味がないのなら、たぶん何となく抗生物質の使用を決断した時点で、 それ以降の診察やら検査やらはすべて無駄なものとして評価される
  • 同じ疾患名であっても、ある治療に効果があるものと、そうでないものとが あるのなら、それは本来違った疾患として扱われるべき何か。どんなにコストが高くても、 そんな検査があるなら真っ先になされるべきだし、今度はその検査技術をコストダウン する手段を考えないといけない
  • 「治療のスケール」という考えかたが必要になる。極端な話、「熱が出ない、喘鳴を伴った呼吸不全」 の治療というのは、喘息の治療と心不全の治療を同時に行えばいいだけの話。 それぞれの診断名ごとに最適な治療を行うならば、両者の治療は一部かちあってくるけれど、 治療を「甘く」していいのなら、2つの治療手段を同時に走らせて、一切の検査を省略しましょう、なんて 話が出てくるはず
  • 治療スケールごとに「同じ治療」が許される病気であるなら、その中では鑑別診断は不必要だし、 たとえば胸部の聴診であったり、レントゲン写真やら、血液検査やらといった評価も不必要になる。 逆に、スケールをまたぐ疾患を見分けるために、たとえばCTを頭から腹まで撮る必要があるのなら、 技術を投入すべきはCTを安く施行することであって、より確実な診断をつける技術は必要なくなる

技術にはいろんな「正しさ」があって、技術に対する考えかたの違いによって、 一番ふさわしい正しさが変わってくる。

医療はたぶん、まだまだプロセスの正しさが一番重要視されていて、 今でもよく論文になるのは、「時間がかかるけれど、より正確な診断ができる」検査手段であったり、 今まで同じやりかたで治療していた病気を2つに分けて、 特定の人にもう少しだけ良く効く治療手段であったり。 技術は微細化、タコツボ化しているけれど、あいまいにいってもいいところを厳密にやろうとしていて、 何となく回り道。

「正しい診察、正しい診療の先に正しい結果が出現する」みたいな確信を疑うのが大切なんだと思う。

システムをどんなに理解したところで、システムの生む結果をコントロールするのは不可能だけれど、 システムの撹乱に気がつくのは案外容易だし、撹乱した先の結果を確率論的に読むこともまた、 システムをそんなに理解していなくても可能。

望ましい結果を生むのに大切なのは、たぶん対処の早さと大雑把なものの見かた。

訴訟のプレッシャーと包括支払い制度の導入は、 診断学、あるいは診療そのものを書き換えるかもしれない。

医療を取り巻く環境が変化するならば、医療もまた、 その環境変化に最適化していかないと生きていけない。

世界はそう、美しくあらねばならない。最適化した果ての美しさがその人の美学を響かせないのなら、 もはやその人の居場所というのは、その世界にはもう存在しない。

あいまいなものをあいまいなまま処理するやりかた。1日待って、成功率9割の治療を走らせるなら、 その場ですぐに成功率7割の治療を2つ走らせるようなやりかた。非効率で、不恰好で、 頭を使わない、むしろ「医師が頭を使うこと」それ自体を害悪とみなすような、そんなやりかたをこそ 「美しい」と感覚する医師がこれから出てくるのなら、医療もきっと、そろそろ相転移の時期。

こんな流れになったら、もちろん医師の地位なんて地に落ちて、 医療を前に進めるのは、医師よりもむしろ理学部の人達のお仕事になって。

自分もきっと、間違いなく置いてけぼりにされる側なんだけれど。