医療機器の祭具的側面

奈良県の母体死亡事例。

  • どうして止血剤を使わなかったのか
  • どうしてCT スキャンを撮らなかったのか

医療者側と、患者側、一方が「意味がない」と断じ、もう一方が「絶対そんなことはない」と信じる、 そんな断絶の考察。

魔法使いは杖を持つ

古代ケルト魔術のドイルドをはじめ、魔法使いの多くは杖を持った姿で登場する。

杖は老人が使う道具。年長者の知恵と経験を象徴している。

杖を持つということは、知恵や権威を身にまとうという象徴的な行為だから、科学的には意味がない。

それでも、この状態でかけた魔術は効果が高くなる。

魔術も科学も、対象に「納得してもらう」ための技術という点では、そんなに変わらない。

単純に投げるとか、あるいは火薬で吹き飛ばすとか、どんな方法であれ、石が「納得する」科学理論を用いれば、 石は空中に浮く。もしも石が納得してくれるなら、その方法は魔法の呪文だって同じこと。

人に壺を買わせるのだって同じ。機能とか、美術的な価値を科学的に示せれば、その科学に対して 人はお金を払う。もっと非科学的な方法を用いれば、科学的にはゴミ同然の代物にだって、 全財産をつぎ込む人だっている。

大事なのは、「対象に納得してもらうこと」それ自体であって、その方法に科学を用いようが、 非科学を用いようが、結果が出れば、どちらだって同じ。

止血剤。茶褐色の注射薬で、「効かない薬」の代表みたいなもの。

科学的な立場に立てば、あれを用いたところで、たぶん出血は止まらない。 ところが、止血剤を混ぜた輸液ボトルは、色が茶色に変化する。 色の変化というのは、医師の「行為」の象徴。

たとえ血が止まらなくったって、「何かをやってもらった」という印象だけは残る。

それだけのことだけれど、あのタイミングで止血剤が入っていれば、 家族の心情が変化して、結果は変わったかもしれない。

防御の円=魔法陣

悪魔を召還するときには、術者を守る魔法陣は欠かせない。

悪魔は、正しく作られた魔法陣の中には入れない。

魔法陣は、一部でも間違っていると効果がなくなるし、術者がその中から指1本出しただけで、 魂を悪魔に持っていかれる。

魔法陣は単なる象徴、悪魔と術者を隔てる境界にしかすぎないけれど、 境界の内外での、悪魔と魔法使いとの駆け引きは、ファンタジー小説の一つの見せ場。

魔法陣の理屈もまた、悪魔に「こちらも一生懸命準備をしているから、 ここには入ってこないでね」と納得をしてもらうもの。

CTスキャンには治療的な効果は全く期待できないし、これを撮って原因が分かったところで、 搬送を断る病院の数は増えこそすれ、「うちが取りましょう」と助け船を出してくれるところなんて出てこない。

それでも、CTさえ撮ってしまえば、「今何がおきているのか」、あるいは 「医療者が今何を考えているのか」を画像で示すことだけはできた。

意識を失っている患者さんにとっては、それは何の意味もないことだけれど、 そのときの家族と医療者、両者の思考を一致させる効果だけはきっとあって、 それはやはり、何か結果を変えたかもしれない。

祭具の代わりになるもの

魔術の本質は強力なイメージの力だから、それがある術者ならば、杖なんか要らないし、 魔法陣をわざわざ描かなくても、同じ効果をもつことができる。

魔法陣は、本来は必ず地面に描かなくてはならないけれど、 エノク魔術においては、緊急時には頭の中に魔法陣を想像しても、効果があるとされている。

ただしその場合、術者の頭の中では、線の1本1本、文字の全てに至るまでが具体的なカタチをとるぐらいに 強力に想像されていなくてはならず、集中力が切れてしまうと、魔法陣は効果を失うという。

止血剤とか、あるいはCTスキャンという道具は、医療器具という科学の側面とは別に、 相手に「納得」をもたらすための象徴という、祭具としての側面を持つ。

祭具的な力のためだけにこうした道具を使うのがためらわれるなら、 「自分のイメージの力」を駆使して、今おきていること、自分が考えていることを 相手に納得してもらわないと、望ましい結果は得られない。

今自分が働いている病院も、夜間は一人。

CT スキャンも血液検査もろくにできないから、 「納得」をしてもらおうと思ったら、自分のイメージをどうやって相手に説明するかが全て。

けっこうな重症の人も来るから、いつもいい結果で終わることなんて決してないけれど、 何とかトラブルにはならずに済んでいる。

お前は他人を言いくるめるのだけが上手なんだろ」と言われれば返す言葉もないんだけれど、 自分は医療の科学的な側面にはあんまり自信がないから、実力のなさを祭事的な部分で 多分に補っていて、今のところはまだ生き延びている。

仮説:誠意を持ったみのもんた

みの(もんた)さん」という医師を仮定する。

  1. みのさんには医療の知識は全くないが、何か手を出そうという意志だけがある
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう見えるのか」をよく理解していて、 信頼のイメージを裏切らないように行動する
  3. 残念ながらみのさんには運がなくて、やったことはことごとく裏目に出る
  4. みのさんは分かりやすい物語を作って、それにみんなを巻き込むのが上手

今回のようなケースで、全科当直をしていたのが「みのさん」だったなら、 事態は大分変わったんじゃないかと思う。

  1. みのさんは医学の知識がないから、患者さんの意識がなくなっても、何がおきたのかは分からない。
  2. みのさんは「患者家族から自分がどう動けば信頼されるか」は分かっているから、とにかく家族の目に見える行動をおこす
  3. みのさんのやることは絶対に裏目に出るから、「色のついた輸液」を探してマイトマイシンを注射してしまったり、 CT室の隣、ライナック室に患者を運んでしまうかもしれない
  4. 不幸な転帰になったとき、みのさんはすかさず、「生命を賭けて子供を世に送り出した母親の物語」を作って、 家族とそれを共有しようとする

医療知識のある医療従事者と、知識のない「みのさん」。

おきたことは、全く同じ。違ってくるのは、物語の受け取られかた。 残された家族は、どちらの「物語」に、より納得できただろうか?

同じ落第点であっても、0点から40点まで、「患者の死」というのは様々な点数を取りうる。

物理事象の査定が0点にさえならなければ、物語の作りかたひとつで、 認識された現実なんていかようにでも変化する。

非常識な仮定だけれど、常識で可能なことを、あえて非常識を用いてやろうとするのが祭事という試み。

科学的には意味のない行為には違いないけれど、世の中科学ばっかりが全てじゃないと思う。