ウォーリーのジレンマ

一昔前に流行った「ウォーリーをさがせ」。

  1. 画面の中にウォーリーが隠れている
  2. それをできるだけ早く探す

これは特徴抽出の問題。解答に至る道筋はいくつもあるし、最適化の方向も見える。

ルールをわずかに変えるだけで、この問題は解答が極端に困難になる。

  1. 画面の中にウォーリーはいないかもしれない
  2. いるならば、それをできるだけ早く探す

「不確実なウォーリー」のルール

ウォーリーの存在が不確実になったとき、 問題になるのが「この画面にはウォーリーはいない」と証明すること。

「ウォーリー」の定義は以下のとおり。

赤と白の縞模様の服・長靴下・帽子、ジーパンを身に着て、 眼鏡をかけて杖を突いている。茶髪で、細長い体形。

ウォーリーを見つけて、「この人がウォーリーである」と証明するのは簡単。

ところが、画面内の適当な人を捕まえて、 「この人はウォーリー要件を満たしていない」ということを証明するのは、極めて難しい。

「確実なウォーリー」ルールでは、画面内のどこかには必ずウォーリーが隠れていることになっていて、 悪魔の証明に陥ることを回避している。

確実な画面の中に、1枚でも不確実な画面が混じったとき、 ルールは簡単に覆る。

西洋医学は「確実なウォーリー」ルール

昔は、本当の病人以外は病院になんて来なかった。

西洋医学は、どこかに確実に病気があって、それを探すための学問として発達したもの。

病気は押すと痛む。病気は熱くなる。病気になった部分は腫れる。

症状をみて、バックグラウンドで何がおきているのかを推定して、それを証明するという 思考過程は、「その人の身体には確実に病気がある」ことを前提にしている。

医学が発達して、病院へのアクセスがよくなった結果、 「健康かもしれない」人が病院に来るようになった。「確実なウォーリー」ルールは 不確実なものへと変貌した。

病気の人を診て、「あなたの症状の原因は○○です」と証明するのだって十分に困難だけれど、 まだまだ何とかなる範囲。

ところが、病気かもしれない人を診て、「あなたは健康です」ということを証明するのは、ほとんど不可能。 医学の発達の過程では、「健康であるとはどういうことか」なんて考える必要もなかったから、 そもそも定義が存在しない。

健康の定義なんて、「ふるい」 の粒度でいくらでも変わってしまう。

  • 問診で健康な人だって、全身の診察をすれば、古いけがの跡なんかが見つかる
  • 全身のCTを撮れば、もっと小さな病巣だって見つかるかもしれない
  • 最近流行のPET を使えば、5mm程度の癌だってみつかる

細かい検査をすればするほど、「その人が健康である」可能性は低くなり、 処理しなくてはいけないデータの量は莫大なものになっていく。

それらを見つけて除去することが、 その人を本当に「健康」に近づける行為なのかは、誰にも分からない。

不確実ルールを確実ルールへ帰着させる方法

「不確実なウォーリー」問題を解答可能な形にする方法は2つ。

  • 問題を大きくする:全ての画面をつなげれば、その中には絶対にウォーリーがいる。 マススクリーニングの発想だけれど、計算が莫大になる代わり、力技で解答可能な問題になる
  • 別の特徴を探す:ウォーリーに「極めてまれな」特徴を追加設定して、問題の大きさを小さくする

後者は、たとえばこんな設定を追加する。

ウォーリーは子供の頃、いたずらをした弟をかばって、祖母から左手の爪を剥がされた。 ウォーリーの左手をよく見ると、今でも2枚の爪が変形している……

爪を2枚剥がされた人なんてそんなにいないから、画面内の全員の爪が正常ならば、 その画面にはウォーリーはいないことになる。

一般化すると、たぶんこんな文章。

  • 問題の大きさを増す代わりに、計算の深さを浅くする
  • 計算の深さを増すことで、問題の大きさを小さくする

医療の現場の話でいくと、前者をやろうとしているのが新生児マススクリーニングや、老人検診。 あるいは、症状にかかわらず、病院に来た人は全員、頭からつま先まで、 とりあえずCTを切ってみるとか。

問題の大きさを増すためには、まずは人間の介在する判断を放棄するところから。

後者の方法が、たとえば「病気でない」証明のためにCRP を測ってみたり、 本物の狭心症をバイタルサインだけで判断しようとする試み。

狭心症は見逃すと恐ろしいけれど、胸痛を訴えて病院に来る人は多くて、全員に詳しい検査をすることはできない。 心電図が典型的でない胸痛の人を見たとき、以下の3つがすべて陰性の人は、 狭心症でない可能性が高く、救急外来から返しても大丈夫らしい…。

  • 患者の自覚症状が狭心症に典型的
  • 胸水がある
  • 血圧が100以下

どちらの方法論も、まだまだ完全には遠い。

スクリーニングは、コストとふるいの粗さの問題からは逃れられないし、 新しい特徴を探す試みは地味だから、たまに論文になる程度。広まらない。

いずれにしても、病院の中の人は、「確実なウォーリー」ルールを解く訓練を受けていても、 不確実ルールに当たるのは不得手。だから疲れるし、誤診から自由になれない。

モデル化は現実を変える

囚人のジレンマ」や、「共有地の悲劇」。

こうしたモデルは社会の問題を一般化して、いろいろと新しい解決方法を生んできた。

ノーベル平和賞を取ったグラミン銀行なんていうのは、まさにこうした理論の申し子。

モデルは理論を作り、やがて社会を変える。

悪魔の証明」問題、あるいは「不確実なウォーリーをさがせ」問題の解決方法というのは、 どうも今のところは「そうならないように注意しましょう」という以外に提案されていないみたい。

頭がいい人、そろそろこちらの方面にシフトしてくれないだろうか?