言葉のはじまり 神代のおわり
魔術師は古いものを集める
古い祭具。古代の呪文。
時の試練を経たものには、古いというだけで神秘的な力が宿る。
ものの進歩の歴史というのは、魔術師にとっては堕落の歴史。
技術が進化し、学習可能なものとなり、それを使える人の数が増えるとともに、 神秘は単なる道具に成り下がる。太古の知恵は失われ、その力は衰える。
科学と魔術とは、考えかたが全く違う。
科学は「学ぶ」ものだけれど、魔術は「分かる」ものだ。
魔術というのは、神代に使われていた技術を再現する試みだから、 必要な知恵はすべて古代に「あって」、それが時代とともに失われていったと考える。
神代の言葉は、根源の言葉。
全ての根源となったその言葉は、 それを唱えることができれば、強力な力を行使できる。
古来、根源言語の探求というのは、 魔術の重要な研究分野の一つだった。
根源の言葉
言葉というものは最初から「あった」もので、 目的があって作られたものではなかった。
- 何かを伝えるために、誰かが言葉を発明した
- 原始的な言語が、だんだん複雑に進歩してきた
そういう考えかたは言語学者の妄想で、魔術の真理とは違う。
言葉は堕落した。神代に使われていた「根源の言葉」から、現在使われている言葉へ。
もともと一つだった根源の言葉は、バベルの時代に乱された。 いくつもの言葉に分かれて、巨大な系統樹を作り出した。
時代は進んだ。
秘儀の力は失われ、 言葉をしゃべる人が増えて、言葉は単なる伝達手段になった。
失われた神代の言葉を再現しようとする試みは、古くから行われている。
幻視や降霊を通じて、古代の人々に接触してみたり、ルーン文字や神代文字のような、 使われなくなった古い言語を用いてみたり。
業界では様々な努力が続けられてきたけれど、まだ試みは成功していない。
系統樹を遡る試みとは別に、昔から注目されていたのが「言葉が見える」人々の存在。
言葉が視覚に反映される共感覚者の人達は、聞こえたものがそのまま見える。
共感覚者に様々な言葉を聞いてもらい、見えたものを記号にした「根本文字」が作られ、 魔法陣に応用されたが、神の召還に成功したという話は伝わっていない。
まだまだ何かが足りない。
「黄色い声」は何故黄色いのか
共感覚とは、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚などの感覚が混ざり合う状態で、 一つの感覚刺激によって、他の感覚が引き起こされる。
音の刺激によって色覚が生じる「色聴」が代表的だが、様々な組み合わせが報告されている。
共感覚という現象は古くから知られていて、 昔は脳の機能異常から生じる現象であると 考えられていた。
研究が進められるにつれ、考えかたは変わってくる。
この感覚を持つ人というのは脳に異常な興奮を生じているというよりは、 感覚系からの入力の一部に抑制をかけられない状態であることが分かってきた。
共感覚という現象は、脳の皮質の下にある海馬を中心に、 誰にでも起こっている神経プロセスだが、 通常は脳の最終処理を行う器官である辺縁系を通過すると、意識から失われてしまう。
辺縁系レベルまでは、全ての人々が共感覚を感覚している。共感覚者とそうでない人との 違いというのは、「その感覚に気がつけるかどうか」、その部分らしい。
現在では共感覚者は、異常な人物であるというよりは、 原初的な神経プロセスをありのままに感じてしまう人たちであり、 「認知の化石」と言えると結論されている。
共感覚の名残のようなものは、実は多くの人に残っている。
「黄色い声」は、世界の誰が聞いても「黄色く」聞こえるのだ。
共感覚を否定する「意識」
音に色がついて見える現象というのは、子供ではしばしば認められる現象だが、 その多くは成長とともに失われてしまう。
人間の様々な感覚というのは、辺縁系のレベルまでは「共感覚」の形で脳が処理する。 ところが、その感覚をそのまま認識することを、意識が邪魔をする。
共感覚を持っていた古代の人々が感覚していたのは、 音が視覚に反映されるのが当たり前だった世界。
音を聞いて、そこから文字を連想するのは必然であって、目的など必要なかった。
時代の変化とともに、人間の意識は何故か、その世界を「非常識である」と認識した。
視覚と聴覚の混在する世界は、意識にとっては存在を許されないものになり、 共感覚を持った人はごくまれにしか存在しなくなってしまった。
昔はそこに神様がいた
意識という不恰好な代用品がとって代わる前には、 全ての人の頭の中には神様がいた。
古代、人々は自分の感覚した世界を、「神の囁く言葉」として認識していた。
すでに文明と呼べるものをもっていたにもかかわらず、 大昔の人々の頭の中には、「自意識」という概念はなかったらしい。
- 今から8000年ほど前に書かれた文章を読み解いていくと、 「牛が2頭いる」「太陽がのぼった後に雨がふった」というような、 即物的な記述しか見当たらないという
- 次に、4500年前ごろの文章を読み解いていくと、 「神が収穫しろと言った。」「天が言うとおり殺した。」 というように神が登場する
- そして3000年前ごろにいたると、 「私が牛を見つけた。」「私が王に贈り物をした。」というように、 「私」が登場するのだという
「意識」が頭の中に登場したのは、今から3000年ぐらい前の比較的最近の話。 それ以前の人々には意識は存在しなかった。
人が意識を持つ以前の時代には、感覚系の入力は、意識による抽象化を受けることなく、 直接頭に入ってきた。情報は「神様の囁き」として感覚され、直接その人を動かしていたという。
たとえば、意識が発達していなくても、精巧な絵画を描くことができる。
3万年前に書かれたラスコーの動物壁画は、 極めて写実的な筆致で描かれたものとして知られている。
ところが、その描きかたはいきあたりばったりであったり、 以前に描いた動物の上に、無造作に新たな動物を描いたりと、 おかしな部分も多い。
ラスコー壁画の主は、その技術のわりには、意志の存在が希薄で、 ちょうど自閉症患者が描いた絵のようだという。
「神様」によって動かされていた当時の人々は、 感覚された視覚情報をそのまま書き写すことには優れていても、 感覚情報を認識して、「これは牛の群れである」などと抽象化することは できなかったからではないかと考えられている。
神様は囁き、感覚されたものを画像化してくれる。 そこには思考のプロセスなど必要ない。
アプリケーションとしての意識
脳のシステムの中では、意識が占める役割というのは意外に小さい。
意識というものは、脳のカーネルなどではなく、単なるアプリケーションだ。
脳というシステムのOS を動かすのに、Windows のようなGUI を用いるのか、 それともUNIX のようなコマンド入力を用いるのか。
- 「神様」というアプリケーションのもたらす世界は、豊かである反面、抽象化の機能に乏しい
- 「意識」は、抽象化を通じて一覧性に優れ、思考をもたらすが、情報の欠落を伴う
神様を選ぶか、自意識をとるかという選択肢は、単なるシェル選択の問題。
世の中を知覚するのに、「意識.exe」を用いるのか、「神様.exe」を用いるのか。
脳のアプリケーションとして意識を選択しなかった人、 映画「レインマン」のモデルとなった自閉症患者、 キム・ピークは、驚くべき記憶力を持つ。
彼は、常人の20倍近いスピードで本を読み、今までに読んだ本9000冊あまりの内容の ほとんどを記憶しているという。
その莫大な記憶は、まるでインターネットの検索エンジンのように、 正確無比に、彼の脳の"ライブラリ"から瞬時に取り出すことができる。
たとえば音楽の一節を聞いたときには、その音楽の題名、その音程と同じ モールス符号の持つ意味、その符号が使われた歴史的な状況など、 聞いた音に関連した膨大な事項が同時に想起され、眼前に展開するという。
「神様の囁き」アプリケーションの力だ。
その代わり、普段の日常生活は、全介助。
膨大な記憶を思い出すことはできても、 それの意味するところを認識することはできない。
神を殺した私の意識
人が出現してから数万年もの間、神様は常に頭の中に実在したから、 人間の社会には王も権力者も出現しなかった。
たとえば、縄文時代の日本の集落には、 まるで都市のように発達したものがみられるけれど、 そこには王は存在しない。
ところが、人の心に意識が出現して、「神の囁き」を邪魔するようになってから、 神様の声はだんだんと聞こえなくなった。
同じ頃、人間の中に「自分が王である」と称する人々が出現しはじめ、 人の中に階級ができ、集落は国家になった。
かつて人は、王のいない大集落を作っても、神様の声に従ってさえいれば、 その集落を平和に維持することができた。
人々の頭の中に意識が芽生えて、脳の中に神様の居場所が失われたとき、 神話の時代は終わった。
もはや共感覚が見せる美しい平和な世界はそこになく、 権力をめぐって人々が争う、醜い現代社会がはじまった。
言葉を乱した神
バベルの塔の逸話では、いい気になった人々を諌めるために、神様が 塔内の人々の言葉を乱し、お互いにコミュニケーションを取れないようにして、 最終的に塔を破壊してしまう。
「言葉が乱れた」現象というのは、言葉を「感覚」していればよかった 神々の時代から、それを「認識」しなくてはならなくなった意識の時代への、 過渡期の出来事だった。
神々が囁いていた根源の言葉というのは、外界を感覚した情報そのもの。
視覚や触覚、味覚といった感覚は統合されて、 「神の言葉」として感覚されていたから、 神の囁く言葉は皆共通。
神が囁くことのなくなった世界では、感覚された情報を、 意識による処理なくしては認識できない。
意識というアプリケーションが処理できる情報量は、悲しいぐらいに少ないから、 辺縁系を上がってきた情報は、必然的に抽象化され、情報の取捨選択が行われる。
抽象化の工程がばらばらだと、お互いコミュニケーションを取るのが不可能になるから、 民族単位、国単位でその工程を約束して決めておく。
こうして、言葉は「カタチ」を持った。
言葉は内的に感覚されるものから、お互い取り決めた「形」に従って認識されるものへと変貌した。
「形」を得た言葉が失ったもの
言葉の処理方法を取り決めることで、言葉は学習可能なものとなり、 意識が支配する社会においての情報伝達の手段となった。
現在の人間社会で使われる言語というのは、記号によるコミュニケーション体系で あるという点で、独特のものだ。
人間以外の全ての動物は、記号を用いないコミュニケーションを行う。
鳴き声などのシグナルや、身体の色や臭い、複雑なダンスや、様々な行動というのは、 全てがコミュニケーションの手段となる。
神代の人間もまた、言葉に加えて、こうしたシグナルを、 「神様の言葉」として統合的に感覚することができた。
意識には、そんな芸当はできない。
こうした「形を持たない言語」の特徴というのは、 そのシグナルを出すのに要するエネルギーが、 そのままそのシグナルの信憑性を保証してくれるという点。
あらゆる動物は、シグナルを出すときに命の危険を冒す。派手な鳴き声は敵を誘うし、 孔雀の大きな羽というのは雌を誘惑するけれど、普段の動作を鈍くする。
強力なシグナルを出す動物というのは、常にそれに引き換えるハンディキャップを負う。 「ハンデを負える」というそのことが、形を持たない言葉の信憑性を保証する。
人の頭に意識が出現する前。頭の中で神様が囁く言葉というものもまた、 あらゆる感覚入力を統合した音声として出現する、形を持たない言葉だった。
意識が神様を追い出して、言葉に形を与えたとき、 言葉は単なる記号となり、人の言葉からは信憑性という大切な要素が失われた。
社会でおきているあらゆる事件は、つまるところ「他人の言葉を信用するかどうか」が全ての 発端になっている。詐欺や殺人、戦争に至るまで。ことのおこりはすべて「信用」の問題。
コミュニケーションをいくら重ねたところで、ゼロはゼロにしかならない。 記号には信憑性を保証する機能がないから、「話せば分かった」のは神代までのこと。
その人の言葉が信用できるのかどうか。人間は言葉だけからは判断できない。 バベルの塔の災いは、人々の間に不信をもたらした。呪いは今でも続いてる。
私はただの銃剣でいい 神罰という名の銃剣でいい 私は生まれながらに嵐なら良かった 脅威ならば良かった 一つの炸薬なら良かった 心無く涙も無い ただの恐ろしい暴風なら良かった そうなれるのなら そうしよう
ロンドンで悪魔と対峙したローマの神父、アレクサンド・アンデルセンは、 聖遺物の力で自分の心を失う前に、こう語った。
意識が支配する世界では、聖職者ですらもはや神様の言葉を聞くことはない。 神の声を再び聞けるなら、心なんていらない。
その人の立場や属性、社会的な地位や収入なんていうものにしか信憑性を求められない社会、 それらを鵜呑みにして過剰な期待をかけては、「裏切られた」とまた傷つき騒ぐ現在というのは、 人々に心なんてなかった神々の時代と比べて、どれだけ幸福なんだろうか?
神様が見捨てた、意識の時代。
他人を信じ、他人に信じてもらうという行為は、なんだか本当に難しい。