高名の木登り

高名の木登りといひし男、人を掟てて高き木に登せて、梢を切らせしに、いと危く見えしほどは言ふ事もなくて、おるゝ時に、軒たけばかりになりて、「あやまちすな。心して降りよ」と言葉をかけ侍りしを、「かばかりになりては、飛び降るとも降りなん。如何にかく言ふぞ」と申し侍りしかば、「その事に候ふ。目くるめき枝危きほどは、己れが恐れ侍れば申さず。あやまちは安き所になりて、必ず仕る事に候ふ」と言ふ。

弟子は木に登る。高い木だ。みている人は緊張し、息をのむ。登っている本人も緊張している。 木に登ることは慣れている。緊張してはいるものの、集中力は高い。特に注意を向けなくても 体は勝手に動き、自然にバランスも取れる。

木から下りる。そこに枝がある、そこに足を乗せると滑りそうだなどといちいち考えること なく体は反応する。手は枝をつかみ、足は滑りそうな場所を避ける。

地面が近づいてくる。観衆も安心し、雑談が始まる。弟子も降りながらいろいろなことを考える。

「あの子供が手を振っている。降りたら頭でもなでてやろうか。ここまで来たら、飛び降りたりしてもかっこいいかもしれない。そろそろ疲れてきた。早く下に着いて安心したい。」

よくみると、まるで機械のように正確だった手足の動きは微妙にずれている。先ほどまでの安定感は失われている。表面上は何とかバランスは取れているが、見る人が見れば危なっかしいことが分かる。

師匠が一喝する。

あやまちすな。心して降りよ
師匠に弟子は我に帰り、初心者だった頃の自分の動きを思い出す。

木を降りる動作は緩慢になり、誰が見てもぎこちなくなる。だが弟子は一つ一つの動作を考えて行動している。先ほどまでの安定感、すばやさはなくなったものの、一つ一つの動作は確実なものになっている。弟子は安全に地面に降り、師匠に頭を下げる。

人間が何かの作業をするとき、その行動様式は知識ベース、ルールベース、パニックの3つのパターンを取る。

知識ベースの行動 初心者の行動パターン。何をやるにしても自分の知識を総動員して対処方法を考え、それから行動する。周囲からの情報を全て処理してから行動に移すので、動作は緩慢になる。

情報処理から行動までの時間は長くかかる。頭への負荷も高く、他のことを考える余裕はない。一方でこの行動パターンには、どんな状況にも対処できる柔軟さがある。

ルールベースの行動 新しい状況に慣れてくると、その特徴を学ぶ。それを元に、今まで学んだ中から対処の方法を選択して行動する。さらに慣れてくると、頭で考えることなく体が勝手に動くようになる。

熱があってのどが痛ければ、頭髪の診察から直腸診までしなくても咽頭炎の診断はつく。 周囲の状況など見なくても、前の車のブレーキランプがつくのを見たら、自分もブレーキを踏んだ方が安全だ。

ルールベースの行動パターンは時間がかからず、すばやい。また行動がパターン化されるため、一つ一つの動作に習熟すると正確さも増す。頭への負荷は低い。何かの作業中にも他のことをする余裕が出来る。しかしすべての物事をパターンで処理するため、柔軟さに欠ける。

パニック 地誌ベースの行動様式、ルールベースの行動様式いずれも破綻してしまう。もはや何も考えられない。全ての行動は裏目に出てしまい、状況は破壊的になることすらある。

行動様式は状況に応じて選択される 行動の様式は、外部の状況や仕事への集中の度合いに合わせて選択される。

人は、初めて行うものについては知識ベースで行動し、慣れている仕事、急いでいたり、作業に集中しているときなどはルールベースで行動する。

この2つの行動様式には中間の状態が存在する。ルールベースの行動様式は、頭への負荷が少ない。負担が減った頭は、その余力を周囲の状況を見渡すのに用いたり、あるいは仕事とは全く無関係な行動に費やしたりする。

モード 知識ベース<===>遷移状態<===>ルールベース 緊急性 時間がある<===>少し忙しい<===>忙しい 集中力 集中<======>注意散漫<======>集中

一番危険なのは中間の遷移状態だ。たとえパニック状態にならなくとも、知識ベースとルールベースの2つの行動様式が入り混じっている状況はミスを生む。携帯電話をかけながらの車の運転、全く別の考え事をしながらの手術はいつか事故になる。

ルールベースで行動するには、作業の対象を正しく認識することが必須になる。

集中していない遷移状態では、作業対象を認識するという仕事は、例えば「携帯電話の会話」という仕事にとられてしまう。頭は対象の認識に失敗する。手足はなれた動作を繰り返し、非常に正確な作業を行っている。それでも作業の結果としてミスが生じる。

師匠の声かけ、外部からのさまざまな情報提供などといった刺激は、行動のモードを知識ベース側に1コマだけずらす働きがある。

師匠のタイミングのいい声かけは、知識とルールとの遷移状態にあった弟子の頭を、知識ベース中心の行動パターンへと移行させる。

モード 知識ベース<===遷移状態 集中力 集中<======注意散漫
結果として頭は危険な動作領域から脱出でき、弟子は安全に地上に降り立つ。

一方、集中して仕事を行っている人に声をかけると、ルールベースで行動していた頭に遷移状態を引き起こす。

モード 遷移状態<===ルールベース 集中力 注意散漫<======集中
たとえば急変中の血圧が下がったという情報、「脈拍が速すぎますがどうしますか?」といった質問は術者の手元を狂わせる。

何かの対処を考えるという作業は、頭のパワーを喰う。ルールの制御に回すCPUパワーは減らされてしまい、結果としてそこにミスが生じうる。

CPU負荷の少ない情報の入れ方とはどういうものか?質問ではなく、対処の提案を行えばよい。何も無いところから対処方法をひねり出すのは大変だが、他人のアイデアをあれこれ批判するのはまだ頭への負荷が少ない。結果としてルールベースで動いている手先の制御を手放す危険が少なくなり、ミスをせずに急変の現場を乗り切る可能性がより高まる。

イデアを提供するということは、CPU負荷の多い仕事をこなすために、複数のCPUを投入する行為に等しい。急変中に、周囲のドクターから冷静なアイデアをもらうのはありがたい。

マルチタスク型の人間 こうした気遣いが全く不必要な人間が存在する。

自分の場合、上記のように頭は同時にひとつの状態しか取れない。頭は常に、複数の行動様式を行ったり来たりを繰り返している。一方そうではなく「マルチタスク型の脳」とでも言えばいいのか、知識ベースの仕事をこなしながら、同時に手と目はルールベースでずっと動かすことができる人がいる。

こうした人は集中力を要する仕事をしながらでも平気で雑談を続ける。全くといっていいほどミスや油断が無い。口は確かに雑談を続け、患者さんとは全く無関係なおしゃべりをしたりしているにもかかわらず、手はしっかりと制御されている。仕事は速く、パニックとも無縁。どうなったらこうなれるんだ。

急変に強くなりたい、仕事が速くできるようになりたいと思う一心で、自分はこの10年ひたすらに行動ルールのライブラリーを頭の中に作りつづけてきた。持っているルールが増えるほど、ルールベースで行動できる範囲は増え、仕事は速くなる。一方でルールを呼び出すことは年々大変になる。ルール制御のオーバーヘッドは年々高まり、スピードアップに上限が出現し始めている。何かに似ている。Win98系の末期の状態だ。

シングルタスク、疑似マルチタスク型のOSの代表がWin98であるが、このOSのスピードアップと動作の確実性を目指した改良に限界がきたとき、マイクロソフトはWinNT系のマルチタスク型のOSを発表した。

自分の陥っている状況も、Win98系の末期の状態を見ているようで、時々非常に不安になる。このまま修行を続けることで、自分の頭もいつかはマルチタスク型の思考が出きるようになるのか、そうしたOS部分の問題は、そもそも研修した病院の初期研修のやり方によって決まるのか。

OSの違いこそが、医師としての才能の違いなのだというのが最終的な答えなのだとしたら、それはそれで非常に悲しい…○| ̄|_

ルールベースの行動について。

少ないパターンだけでどれだけ複雑なことが出来るのだろう?実世界で非常に複雑に見えるものも、わずかなパターンで実現しているものは結構ある。

トリや魚の群れは、ときに極めて複雑な形の群れを作り、整然と行動する。まるでよく出来たマスゲームを見ているかのように動く。

人間がマスゲームを行うときには動きのパターンの練習、音楽のタイミング、周囲の人との間隔など、さまざまなことに気を使いながら行動する。結構頭を使う。それなのに、下手をするとトリの群れのほうが人間よりもきれいな群れを作り、軽快に飛び回る。

この群れの動きを決定しているルールは3つしかない。1987年に、グレイグ・レイノルズが書いたboid というプログラムは、コンピュータ空間上を自由に飛び回る鳥の群れを再現した。

このプログラムで鳥に与えられたルールは以下の3つであった。

ルール1:近くの鳥たちと飛ぶスピードや方向を合わせる。 ルール2:鳥たちが多くいる方へ向かって飛ぶ ルール3:近くの鳥や物体に近づきすぎたら、ぶつからないように離れる

これだけで、モニター内を鳥の群れが極めてリアルに飛び回る。障害物を置いても、あたかも本物の鳥の群れのように障害物を避け、再び群れはひとつになって飛びつづける。

ベテランの思考や動作も、しばしばこうした単純なルールの組み合わせで複雑な行動を再現している。