やりかたは無数にある

「絶対に正しい手順」というものは、一つに決められないのだと思う。

現場にあって「絶対」と言い切れるものは、状況を乗り越えるための「目的」と、 それを達成する上で「制約」であって、「手順」というものは本来、 「こうしたらたまたま上手くいった」という以上の意味を持っていない。

偽のベテランが正しさ競争を始める

医療の教科書は、今はもちろん、「こうするのが正しい」のカタログみたいになっているけれど、 あらゆる手技だとか、治療だとか、手順というものは、本来は暫定的なやりかた。

ある状況から「治癒」を目指すためには、状況ごとの「目的」というものがあって、 目的が、身体の解剖学的構造だとか、病気が生み出す「制約」とぶつかりあった結果として、 制約をくぐり抜けるための手順が生まれる。

手順はだから、本来は無数にある。「こうしたらうまくいった」という、試行錯誤の経験が重なって、 どこかのタイミングで「暫定的に正しいやりかた」みたいなショートカットが生まれる。 「正しさ」を伝えるのは簡単だし、試行錯誤を経験しなくても再現できるから、 そのうちたぶん、本来の「目的」だとか「制約」は、伝えられなくなってしまう。

目的を見失った正しさは、原理主義の競争を生む。

「教わったやりかたよりももっと厳密」だとか、「こうしたほうが切開線を3mm 短くできる」だとか、 正しい手順には、「目的達成」には何ら貢献できない、様々な「改良」が積み重なって、 手順はますます、本来の目的から遠ざかっていく。

切る爺医のこと

ベテランの外科医は、切ったことのない病気の「切りかた」を推測できる。

うちの施設にいるベテランの先生がたは、人体というものを、「制約の集積」として理解している気がする。

外科のカンファレンスを聞いていると、そういう先生がたは、診たことのない病気であっても、 CT 画像で「ここ」という場所に病変を見つけると、「そこに到達するなら、この場所から入って、 切除するときには血管の処理が問題になるね」とか、語り出す。

「爺医の語り」はおおむね真実で、もう少しだけ世代の若い、最新の知識を蓄えた外科の先生もまた、 「今はそういうときにはこんなことをするんです」なんて、おべっかでなく、「議論」が始まる。

「理解」の深度には、たぶん「正しいやりかたを知っている」のレベルのもっと深いところに、 「やってはならないことを知っている」という段階があって、ここに到達できた外科医は、 教科書的な知識を持っていない病気と対峙しても、「目的」さえ示されたなら、 それを解決するための方法を、その場である程度演算できるようになる。

「教科書の正しいやりかた」は、本来はたぶん、その人が自分なりのやりかたを演繹できる段階にまで至って、 初めてそこで、無批判な受容を強要するものから、自分のやりかたと比較するための対象として、 読んだその人に、「確信」をもたらしてくれる。

「ここからのやりかた」を教えてほしい

治療ガイドラインを丸暗記した専門医の言葉は、しばしば空虚で、 今ひとつ響かない。

何かを相談しても、正しいやりかたを教えてくれはするけれど、じゃあ今の段階から どうすればいいのか、どこを目指せば、この人は治癒に向かうのか、分からない。

たとえばある感染症を治療するには、教科書には「ペニシリンG を使いなさい」なんて書いてある。 それで十分治るから。それが「正しい」考えかただからと、明快に書いてある。きっとそれは正しいんだろうけれど、 じゃあ今自分たちが患者さんに使っている薬は、果たしてこのまま続けていいものなのか、それとも絶対に、 専門家推薦の薬に変更しなくてはならないのか、分からない。

専門家は、「いい検体」をとって調べれば、それに従った抗生剤を使えば十分に効くという。

教科書には、たしかに「いい検体をとれ」と書いてあって、いい検体のとりかたも、一応書いてある。

ならば「いい検体」がどうしてもとれなかったときにどうすればいいのか、あるいは今自分たちが とった検体が、果たして「いい検体」なのかどうか、どうやって判定すればいいのか、やっぱり分からない。

検体にしたがって薬を選んで、それが効いたら、その検体は「いい」ものなんだろうし、 患者さんの具合が悪化したなら、それは「検体が悪かった」せいになって、 専門家の「思想」は明快なまま、変わらない。それはやっぱりおかしいと思う。

目的と制約から手順を見いだす

戦略家のクラウゼヴィッツは、「戦争論」の中で、「武徳」の効用について説く。

武徳を持った兵士で作られた軍隊は優秀で、いざというとき、非常な力を発揮するのだと。 武徳は大切で、兵力を何倍にもしてくれるものだから、普段から兵士を鍛えて、 武徳を発揮できるよう、訓練しないといけないのだと。

古くさい精神論なんだけれど、クラウゼヴィッツはそこから、 「それでも武徳を持たない兵士を率いて、なおも勝利を収めた例は、歴史上たくさんある」と続ける。

武徳の備わった軍隊は強力だけれど、軍隊を率いる人は、「武徳を欠けば勝てない」などと言ってはならないのだという。

将軍は、平時から武徳を養うべきではあるけれど、敗北の理由を武徳の欠如に求めるのは軍人として間違えで、 武徳を持たない兵士を率いた戦いかた、あるいは、武徳をほかの何かで補いながら、 何とか「勝利」を拾う戦略を、軍人は、発見する努力を、最後まで放棄してはいけないのだと。

目的と制約とを理解した人たちが、結果としてある手続きに収斂していくことと、 そこにいる人たちが、「最初からそれしか出来ない」こととは、 一見同じような状態であるようでいて、恐らくは全く異なっている。

「こうして治す」を記述するやりかたは間違えで、症状ごとの「目的」と、 「制約条件」を、まずは前提として示せない限り、その専門家には、人を教える資格がないような気がする。

総合医を1 年間で養成しましょう」とか唱えている人たちの中に、本当の専門家がいるといいのだけれど。