診断学のこと
診断学の本を読んでいる。
ベイズ推定が主流になるのか、どの本も、「総論」のところに統計学的な疾患推定のやりかたが解説されている。
「蹄の音を聞いたら馬だと思え。シマウマを探してはいけない」だとか、医師の思い込みだとか、 先入観で診断を行うことを戒めてる。
驚きが追従者を生む
統計的には、感度が高い検査が陽性になったからといって、そもそもの発症頻度が低い病気なら、 その陽性にはあまり意味がないのだという。95% の的中率を誇る検査で「陽性」が でたからといって、普通の人がその疾患にかかる確率が5%でしかないのなら、 「陽性」と言われたその人がその病気である可能性は9%にしか過ぎなくて、 「陽性」の9割は間違えなのだ、なんて紹介される。
新しいやりかたで、今までやってきたことを振り返ると、しばしば全く違った世界が見える。 「先入観」が隠してた何かだとか、自分達が必要以上に恐怖を煽って、あるいは煽られていた部分だとか。 統計のやりかたは、しばしば読者を驚かせる。読者の「誤り」を指摘して、その人を驚かせて、 統計学者は信者を増やす。
診断学は閉じた学問で、人間が人間である以上、毎年のように病気の数が増えることなんてありえないし、 今も昔も、肺炎になった人は咳をするし、胃潰瘍になった人はお腹を痛がる。変化がないから「間に合っている」 とも言えるし、進歩がないぶん、誰もがそこに、新しい技術を入れたがってる。
「エビデンスに基づいた」医療のやりかた、診断にたどり着くために「ベイズ推定」を用いるやりかたは、 診断学の世界に久しぶりに登場した新しいやりかた。いろんな「常識」が覆されて、 恐らくは「エビデンス」との相性抜群だから、これから内科を学ぶ人達は、きっと統計の知識が必須になるんだろうなと思う。
正しい技術は驚かない
統計的な考えかたを導入した、新しい世代の診断学は、読んでいてたしかに驚かされる。 自分達が盤石と思っていた検査の感度が案外悪くて、ごく素朴な、患者さんにささやかな質問をするだとか、 足をちょっと触ってみるだとか、簡単な理学所見を取るだけのことが、極めて高い診断確率を持っていたりする。
読んでいて驚く。驚くんだけれど、読者に「驚き」を提供する新技術は、 それでもたぶん、どこか間違ってると思う。
世の中をひっくり返すような新しい技術は、たいていは「便利」なものとして世の中に登場して、 それが出現した翌日から、それは生活の一部として認識されて、新技術を使う人達は、ほとんど誰も驚かない。
その技術が登場したあと、みんなの生活は一変していて、技術に詳しい人達は、みんな「すごい時代になった」なんて 感心しているのだけれど、その変化はあまりにも自然に行われてしまうから、たいていの人は驚かないし、 「それがなかった昔」を振り返らない。
インターネットを使った動画配信の技術なんかは、たぶんそのすごさが理解できる人にとってはすごい技術なんだろうけれど、 自分達ユーザーは、単に「便利だな」と思いながらそれを使って、youtube はすぐに生活の一部になった。 パソコンでテレビを見るのが一般的になって、昔ながらの、みんなで今に集まってテレビを見る習慣は無くなったりして、 たぶん生活のいろんな風景が変わったのだろうけれど、あの技術で「驚いた」人は、たぶん youtube を視聴する 莫大な数のユーザーからみると、ごくわずかな数でしかないんだろうと思う。
診断学にベイズ理論を取り入れるやりかたは、どの本開いても、最初に「読者の驚き」を要求する。 たしかに驚くんだけれど、驚きを求めないと話が前に進まないこの時点で、すでにこのやりかたは、 技術的に「正しくない」ような気がしている。
患者さんは安心を買いに来る
同業者が「驚く」技術、あるいは考えかたは、そのやりかたを患者さんに適用すれば、 患者さんはもちろん、もっと驚く。
驚きは不安につながる。患者さんの不安に対して、統計学者は「それはあなたの先入観なんです」なんて言うんだろうけれど、 不安に根拠のないことが「統計的に」証明されたところで、やっぱり不安はそのまま残る。
統計学者にとっての「誤差範囲」の事象は、それでも当人にとっては、一生を左右する問題になる。
不安駆動型のやりかた、症状から考えられる疾患名を「死ぬ順」に並べて、 「死ぬ病気」から順番に除外していくやりかたは、統計学者からは叩かれるけれど、 素朴な直感に逆らわない、医師も患者も安心できるやりかたではある。
自分達が売っているものについて、みんなもっと自覚的になるべきだと思う。 医療は結局のところ「安心」を販売して対価を得ているのであって、「診断」だとか、 「治癒」でさえもまた、安心が生まれて、初めて価値が生まれるものにしか過ぎない。
統計を売るのはコンサルタントの仕事だけれど、医師が統計を学んで、 それをそのまま患者さんに販売したところで、お客さんはたぶん喜ばない。
症状は創発する
たとえば隣町の病院まで 2時間かかる田舎の診療所に「頭痛」を訴えてきた人と、 コンビニエンスストアと化している総合病院に、日曜日の夕方に、頭痛で立ち寄った人と、 それを同じ「頭痛」の範疇で扱ってはいけないような気がする。
症状というものは、その人の病理と、その人が対峙した環境とが相互作用を生じることで、創発する。
田舎の診療所に来る頭痛は、病理それ自体が生み出した「本物」である可能性が高いけれど、 CTスキャンがある、日曜日の夕方なら「空いている」ことが周知されている病院で発生した「頭痛」は、 むしろ「CTを切ってほしい」というニーズが、頭痛を要請した可能性がある。
CTスキャンを撮りたくて病院に来た人に、ていねいな診察を行って、 「CTを取る必要はありません」なんて説明したところで、恐らく満足は得られない。 あるいは逆に、外来に「CT時間外10万円」と書いた紙を貼っておくだけで、 この患者さんの「頭痛」は治ってしまうかもしれない。
統計で考える診断学は、症状を、患者さん固有のものとしてあつかって、 同じ患者さんに発生した同じ症状は、それがどこで発生しても、バックグラウンドでは 同じ病理が進行していることが前提になっている。
これは「経済合理的な人間」を前提にした経済学がうまく機能しないのと同様に、どこか危険な気がする。
新しい技術のこと
新しい技術が入ると、それがどちらに転んでも、現場はたぶん「馬鹿」になる。
現場を正しく「馬鹿」にする技術は、ベテランの価値を普遍化してしまう。現場は大学出たての 研修医でも普通に回るようになって、そうした技術は、現場を「馬鹿」ばっかりにしてしまう。
伝説の宮大工、西岡常一は、現役時代、大学の先生から「馬鹿」扱いされたんだという。
ある時期の建築学が、現場を見ないで一人歩きしたことがあって、 大工の目から見て「建たない」やりかたが「正しい」とされた。大学の先生の指導に従わないで現場を回していた西岡は、 大学の人達から「馬鹿」と言われて、実際に作って見せるまで、「馬鹿」の評価は覆らなかったんだという。
新しいやりかたが導入されて、現場はたしかに驚いた。統計の技術は正しくて、 なんだか反論するのが難しそうで、自分なんかはだから、これから先、統計学んだ人達から「馬鹿」と 言われる機会が増えるんだろうなと思う。