会見記事を読んだ

島田紳助の引退記者会見 を文字におこしたものを読んだ。

一連の事実がきれいな物語として報告されて、きちんと管理された事実のみをを前提にした、突っ込みどころの少ない、自身が頭を下げる必要のない見解を組み立てているような印象を持った。

きれいな物語は何かが欠落している

語りたくない不都合な事実があったり、事実関係に何らかの瑕疵があったりするときほど、物語としての事実はきれいに、一貫したものとして語られることが増えてくる。

事実が自分でも管理できていない場合、通信のログが保管されていないとか、事実関係が曖昧で、証言の収拾もまだ十分に行われていない場合には、一連の事実を物語のようにつなげようと思っても、うまくいかない。話は必ずグダグダになるし、物語には「詳しくは覚えていないのですが」とか、「昔のことなので記録は残っていないのですが」とか、たくさんの但し書きが入ることになる。

語る側が隠さなくてはいけない何かを持っていない場合、相手がその部分についての詳細な記録を発見することができれば、それが物語の見通しをよくすることに貢献する。突っ込みどころの多い、整っていない物語というものは、裏を返せば物語る側に、そもそもリスクを冒してまで隠蔽すべき何かが無い可能性が高い。

語る側が、事実の瑕疵を見解の堅固さで補強しようと試みるとき、物語は磨かれることになる。事実のピースがいくつか抜けているにもかかわらず、物語は逆説的に、欠落など最初からなかったかのように、無理のない、きれいに過ぎるものに磨き上げられる。

きれいにすぎる物語というものは、聞き手による「新しい事実によって明快になる要素」を、暗黙のうちに拒絶している。あの記者会見は、そういう意味でスムーズに過ぎて聞こえた。

見解のコントロールと事実のコントロール

話者と聞き手との間である事実が共有されて、今度はお互いが、その事実を地盤とした、それぞれの見解を作ることになる。見解を強固なものにするためには、その土台となる事実を強固にしなくてはいけない。一貫した、ぶれの無い見解を語ろうと思ったら、なおのこと事実のコントロールを確立することが大切になる。

記者会見において、物語は「こういう事実があった。自分はそれを認める。自分の認識に照らして後ろ暗いことはなかった。ところが会社からそれが違法と聞かされた。お互いの認識が異なっていた」という論理で一貫していた。

物語は通常、いくつかの事実が出会うことで幕を開ける。一連の事実を体験した結果として、話者の見解は、時系列に従ってその形がはっきりしていく。話者の見解が「これ」という実体を持ったその時点で、過去との整合性が取れないのはむしろ当然であって、最初から一貫した見解を持って事実と対峙できる人がいたとしたら、むしろそれは不自然だと言える。

会見記事では、出会いの当初から一貫した見解が語られていた。あれはだから、確立した見解に整合するように、体験した事実に対して再構築を行っているように思えた。

再構築された事実関係と、それに基づいた見解との組み合わせは、「事実の真実性が管理されている」という前提において強固であると言える。あの場で語られた様々な事実について、話者は嘘をついていない、少なくとも語られた事例についての調査を行っても、話者の見解を崩すような矛盾は出てこない可能性が高い。会見の席では、過去のトラブルであったり、今も終わっていない訴訟の話にも触れられた。本筋にはあまり関わってこない、痛い腹をあえてさらけ出してみせるあの態度もまた、自身の語った範囲において、事実のコントロールがきちんとできていることの現れなのだと思う。

見解の崩しどころは語られなかった部分にある。あれだけ一貫性を強調するやりかたをすると、矛盾した事実が出てくれば見解が瓦解してしまう。語られた事実を時系列に、時の軸を等間隔の目盛りで区切ると、どこかに空白があるはずだから、その時期にどんなことがあったのかを詳しく調べると、何か出てくるんじゃないかと思う。

損得勘定と正義

島田紳助の見解は、損得勘定で行くとむしろあえて損を取っているように思えた。あれがどうしてなのかよく分からなかった。

「当初から一貫した態度の元に行動した。その態度が間違っていたことが最近分かったから責任を取って引退する」という論理はきれいに過ぎる。もっと無難にやるなら、「最初は出会いが楽しかった。それが業界的に黒だとうすうす気がつきながら、やめられなかった。ずるずるここまで来て、いよいよそれが黒だと思い、上司からそれを指摘された。自分が間違っていた」という論理になる。このほうが傷口を小さくできる。

「人間の謝罪」と「システムの謝罪」というものがあって、同じ謝罪や反省であっても、意味合いや受け止められかたがずいぶん異なってくる。

「自分の認識が変化していく中で、現在の自分から見て過去の自分が間違っていた」という持って行きかたをすると、そこで人間として謝罪する機会が生まれる。謝罪の会見は通常、「システムは間違っていなかった。人間の側に油断があった」という落としどころを目指す。本来の原因がシステムの瑕疵であったとしても、あえて人間の側に謝罪の主体を持ってくることで、システムを守ることができる。コストを低く抑えることができるし、人間が頭を下げるから、追及の手を断つこともできる。

「自分は正しいと思うことをしていた。業界の正しさと、それは相容れなかった」という持って行きかたは、業界のシステムに対して、自身のシステムが敗北を認めた、という謝罪をすることになる。これは同時に、システムの改変を宣言することにつながる。人として謝罪しているわけじゃないから、システムを改良する行程は検証されて、追及の手はむしろ深くなるし、「システムの謝罪」を行った人は、それを断る根拠を失ってしまう。ミスを防ぐ観点からはこのやりかたのほうが正しいのだけれど、高コストで「しっぽ切り」ができないからこそ、このやりかたは選択されない。

道徳や正義が先走ると、損得勘定が後回しになる。損得勘定を優先することと、正義を無視することとは全く異なった考えかたで、自らの側に正義を持ってくることは、最後に大きな「得」を獲得する際、状況を有利にしてくれる。損得勘定と道徳律とは両立できる考えかたなのだけれど、正義を先に走らせると、2つの価値はむしろ対立するものへと変わってしまう。正義が前に立つ人の判断は、だからこそ恐ろしいのだという。

正義は人によって大きく異なる。大切だけれど届く範囲が狭いからこそ、「損得勘定は我らの共通の言葉。それはこの天と地の間で二番目に強い絆だ」という原則が生きてくる。損得勘定を後ろに回す人はしばしば、違う誰かに同じ正義を仮想する。仮想が間違っているわけだから、それが争いの種を生む。

あえて損を取ってでも、トラブル収束の可能性が遠のいても表現したかったものが正義なのだとしたら、会見で述べられた話者の見解は、あれはあの人にとっての正義であったのかもしれない。

いろんな意味で、不思議な印象の会見だった。