価値の判断は面倒くさい

「それが自分にとって面白いのかどうか」を判断するのは面倒な仕事で、人間は、その気になればどこまでも怠惰になれる。

流行しているサービスや、景気の悪いときでもお金を生んでいる産業というものは、そうした面倒くささを回避する仕組みを持っている。顧客から判断の機会を奪うことが、結果としてお金を生むことにつながるのだと思う。

楽は楽しい

たとえば早朝の時間帯、当直の起き抜けは、自分の頭が一番働いていない瞬間の一つであって、本を開いたって何一つ頭には入ってこない。

ネットを見たところで、状況はそんなに変わらないのだけれど、たとえばTumblr みたいなサービスは、頭がどれだけ回っていなくても、それなりに文章を追っかけられて、何かを楽しんだ気分になれる。

Tumblrダッシュボードには、自分以外の誰かが「これは面白い」と判断した文章の断片が、自動的に更新されていく。文章は抜き書きみたいなものだからたいてい短くて、自分と好みの似ている誰かが面白いと思った文章は、自分が読んでもやっぱり面白い。何よりもTumblr みたいなサービスは、「これから読む文章はたぶん面白いんだろう」という先入観で文章を読むことができて、それが裏切られる確率が比較的低いから、価値判断のコストが低い。

Twitter のタイムラインには、面白いと思ったり、有名な人だったり、見知ったID に紐付いたつぶやきが並ぶ。つぶやきの面白さではなく、つぶやいた人の顔を想像しながら読む要素のほうが高いから、タイムラインを追っかけているときには、自分はやっぱり、価値の判断を行っていない。

2ちゃんねるまとめサイトは、編集した人の意図に沿った書き込みは赤の大文字で、それに対する誰かの反応や、笑う場所、怒る場所にはそれと分かる編集が為されているから、どこで笑えばいいのか、どこで共感し、どこで怒ればいいのか、字面を追っかけるだけで分かる。読者は何も判断しなくても、掲示板の雰囲気を追体験できて、読んでいてあれは、とても楽に思える。

「楽なこと」と「楽しいこと」とはだいたい等しいのだと思う。

価値の判断を代行してくれるサービスは、「有用な内容がない」なんて叩かれることも多いけれど、叩かれるほどに人が集まる。2ちゃんねるまとめサイトなんかは、あれだけ叩かれても、それでもやっぱり気楽に読めるし、それを読む気楽な数分間は、やっぱり感情として「楽しい」と言っていいような気がする。

個人的には、だから判断というのはとても面倒な仕事なのだと思う。自分が好きだと思ったものを、好きなように読めば楽しいはずなのに、「お前はこれが好きなはずだ」と、他の誰かから「好き」を押しつけられると、それは本来不快を感覚しないといけないものなのに、判断仕事量が減った分だけ、それが「楽しい」と感覚される。お笑い番組の笑い声なんかもそうだし、ニコ動で、実際におきた悲惨な事故に笑い声を重ねる不謹慎動画なんかを見ても、たしかに頭のどこかで「これは面白い」と感覚する。「楽である」ことは、「あの体験は楽しかった」と、いろんなものを事後的に正当化してしまう。

生データは面倒くさい

判断に要する仕事量と、「退屈だ」という感情とは、たいていの場合比例する。

編集者の意図が排除された、偏見のない生データは、そこに書かれたデータが自分にとってどういう意味を持つものなのか、いちいち自分で考えて、判断しないと使えない。仕事量は増えて、結果として、どうしてもそれを退屈だと感じてしまう。

本を買って読むときには、どれだけ有名な賞をとったものであっても、それが自分にとって面白いのかどうか、常に判断しないといけない。ネット上の文章ならば、今は評判を序列にする仕組みがたくさんあるから、評判のいい場所から読むことだってできるし、「この文章は自分と好みの似ている○○さんが推していた」という先入観を持つことだってできるのだけれど。

決断力のある人なら、最初の数ページを開いただけで「こりゃ駄目だ」なんて本を投げられるかもしれないけれど、自分にはもったいなくて、なかなかそこまでできない。結果としてたいてい、どうしてこの本は自分に響かないのか、それは自分が悪いのか、それとも作者の人が悪いのか、悪いのだとしてそれは技術の問題なのか、あるいは正義や倫理観の問題なのか、悩みながらページをめくることになる。

読みやすいといわれているライトノベルみたいなものにしたところで、最初の数十ページを読むときには疲労する。果たしてこれが自分にとって面白い物語になるのかどうか、世界観を受け入れて、あとから「面白かった」という感覚が得られるのかどうか、このときばかりは考えるから。

面倒で面白いものは大事

読みやすさをどれだけ工夫しても、それが本である限り、「それが面白いのかどうかを自分で判断しないと楽しめない」という制約からは自由になれない。それは本というメディアの限界でもあるし、こうした面倒なメディアを、それでも摂取していかないと、判断をする力というか、判断を続ける持久力みたいなものは、だんだんと衰えてしまうのだろうと思う。

「楽」と「楽しい」を重ねていくと、判断はたぶん、ますます面倒なものになっていく。インターネットには「楽」を提供する仕組みがたくさんあって、判断しないで文字を追っても、時間を潰してそれなりの満足を得られるけれど、面倒なメディアからは足が遠のいてしまう。インターネットのテキストは「楽」でないと読まれないしから、読者に判断を要求する文章は少なくて、基本的に誰かの追体験で書かれた記事が多くて、実際にある程度の量を読むまで面白いのかどうかが分からないひとかたまりの文章は少ない。

面倒なメディアは、本屋さんや映画館の中には存在しているけれど、ネットにはなかなか出てこない。このあたりがまだ、インターネットには欠けている部分でもあるし、斜陽化しているなんて言われている出版社という存在は、まだまだネットの地図を書き換えられるぐらいに膨大な、得難いコンテンツを持っているのだと思う。