不思議なものとのつきあいかた

「不思議なもの」は、今の世の中にだってたくさんある。それが証明された事実なら利用すればいいし、虚偽なら否定すればいいけれど、「不思議なもの」はそのどちらでもないものだから、距離を置いて「つきあう」ことが大切になる。

「不思議なもの」と対峙して、それをあたかも事実であるかのように利用を試みてしまったり、逆にあらゆる不思議を虚偽と断じて否定したりすると、たいていはろくでもない結果が待っている。

ビールの原理

自分にはたとえば、「ビールがたくさん飲めること」が、未だに不思議に思える。

ネットをちょっと引っ張ると、これは「アルコールが胃から吸収される」からという説明が為されているのだけれど、ビールのアルコール濃度は6%程度だから、これ胃から拡散吸収できたところで、自分が体感するビール特有の「いくらでも」とは、ずいぶんかけ離れているように思えてしまう。

アルコールと人体との関係は、医学が一番詳しいはずなのだけれど、「ビールがたくさん」の説明は、教科書に書かれていない。「過剰に吸収されたアルコール」に対峙する方法と、アルコール依存の患者さんを「アルコールから遠ざける方法」はたしかに医学で、教科書にも記載があるのだけれど。

ある事象を「不思議でない」ものにするためには、原理の説明があって、その原理が再現可能な手続きで検証されないといけないのだけれど、「ビールがたくさん」を検証するのは難しい。胃からの吸収と、腸管からの吸収を区別するのがまずもって難しい。静脈とはいえ、腸管の静脈である門脈系にカテーテルを入れるためには開腹手術が必要だし、たかだか「ビールがたくさん」を証明するのに、そこまでやった人がいるとは思えない。

「ビールがたくさん」飲めるという体感それ自体、宴会で酔っぱらって、そのときふと「たくさん飲んでいる」わけで、定義もなければ定量も難しい。「ビールがたくさん飲める」という事象は、たぶん科学の手続きで厳密に証明された説明は行われていないだろうし、自分にとっては少なくとも、そうした説明に行き当たっていない以上、「ビールがたくさん飲めること」は「不思議」の範疇であって、「説明できること」でもなければ、「根拠のないでたらめ」であるとも言い切れない。

不思議なものには決まったつきあいかたがある

それが神霊写真やUFOみたいなものであっても、「ビールの原理」みたいな日常生活のちょっとしたことであっても、「不思議で理解できないもの」との接しかたには共通した手続きがある。

オカルト雑誌は、UFOを特集するときには「UFOを見たらまずそこから離れて、安全を確保してから、できれば警察を呼んで記録をしてもらいましょう」なんて注意するし、心霊写真を特集するときには、「お墓を荒らすようなまねは絶対に慎みましょう」という断り書きが入る。

これは「不思議との接触」における基本なのだと思う。不思議と遭遇した際には、まずは離れて一息ついて、できれば不思議を懐疑する人にも意見を聞くのが正解だし、何かを不思議と認識した際には、それを不思議と認識しない誰かのことも想像して、相手の迷惑にならないような振る舞いを心がけないといけない。

いいオカルトと悪いオカルト

オカルト雑誌には、たしかに怪しげな記事が紹介されるけれど、それでもきちんと編集者の目が入っているから、オカルト雑誌のオカルトは、どこかに「安全装置」的な配慮があったように思う。

子供の小遣いでは手が出ないような開運パワーグッズが広告で紹介する一方で、雑誌の折り込みには、紙で印刷された護符がついてきて、そうしたグッズにどこまでのパワーが実感できるものなのか、読者にはあらかじめ想像できる機会がもうけられていたし、怪しげな霊能者のセミナーが記事として紹介されている横で、撮ってしまった心霊写真は、基本的には「編集部に送れば責任を持って処置してくれる」ことになっていた。

ネット時代の「オカルト雑誌を通さないオカルト」は、そのあたりの配慮が薄いような気がして、個人的にはそれがおっかない。

「水に挨拶するといいことがある」という教えにしても、「汚染に有用菌を巻くときれいになる」という教えにしても、ナチスのUFOや呪われた心霊写真、フリーメーソンの陰謀なんかに比べれば、はるかに安全で、道徳的にも「いい」ものに思えるけれど、そうした教えは検証不可能なのに、最初から事実であることを前提とした運用がされていたり、ムーの「実用スペシャル」みたいに、自分で追視したり、ふと我に返って考え直せるような「安全装置」に相当するものが最初から設定されていない。オカルトの仕掛けかたとして、あれは危険なやりかたをしている気がする。

昔からオカルト雑誌を読んでいる人ならば、仕掛けの技術としては明らかに素朴な、いっそ懐かしくて笑ってしまうような「不思議」と接して、それを丸呑みして自身の人生を書き換えてしまう人が時々いる。ああいうのは、そのオカルト自体のパワーというよりも、その仕掛けかたが悪質であったが故に生じた現象に思える。

不思議は不思議のまま教えてほしい

不思議なものは、否定される機会こそ増えたけれど、実際問題減っているわけではないのだと思う。

ある分野を勉強すれば、たしかに暫定的な理解は深まるけれど、理解を深めると、厳密に検証された「事実」とそうでない部分との境界が明らかになって、検証されていない「不思議」の数は、むしろ増えていく。

ある事象を不思議と認識しないで、手持ちの知識で「当然のもの」であると受け取ってしまうことも、あるいは理解できないものに対して「そんなことはあり得ない」と拒絶してしまうことも、どちらも等しく思考停止なのだと思う。不思議なものは不思議なものであって、正しくつきあい、取り扱わないといけない。

たとえば「こっくりさんを呼び出したはいいけれど帰ってくれない」という問題に、学校の先生はたぶん「これ」という答えを返してくれない。帰ってくれないと呪われることになっているから、当の子供にとっては、これは大きな問題なのに、まわりに不思議の取り扱いかたを知っている大人がいなければ、問題は問題のまま、一人歩きをはじめてしまう。

オカルト雑誌にはときどき、こんな悩みに対して、編集部の人たちが暫定的な答えを返してくれる。実世界では、不思議の悩みに答えられる人は多くないからこそ、雑誌のような暫定的な権威は、場の安定に大きく貢献する。編集者の良識や常識のようなものは、科学雑誌ならば機能しつつ時々批判されたり、マスメディアだと「メディアの陰謀」の主役にされたりして、「編集者のいない利点」というものが、ネットではしばしば語られるけれど、オカルトという分野については、編集者の不在が恐ろしい事態を引き起こしてるような気がする。

こっくりさんが帰ってくれなくて困る」なんて悩みは、オカルト雑誌を開けば、無難で妥当な解決を教えてくれる。学校の先生に尋ねても、もしかしたら否定されてしまう。じゃあこうした悩みをネットで公開したら、悩みは脆弱性そのものだから、どんな「権威」からとんでもない解答を突っ込まれても、子供には抗うすべがない。

こっくりさんはオカルトだけれど、たとえば「川をきれいにするにはどうすればいいんだろう」なんていう疑問もまた、問いとして漠然としすぎていて、厳密に科学的な立場からは、「これ」という解答を返せない。科学の権威たる大学のを門叩くにしても、そもそも誰に聞けばいいのか分からないだろうし。「こっくりさんが帰ってくれない」と悩む子供も、「川をきれいにしたい」と悩む大人も、どちらも等しく「不思議の問いを抱えた人」であって、こうした問題に答えを返すのは、科学ではなくオカルトの役割なのだと思う。

不思議の問いに対して、無難な落としどころが見つけられないと、「私は答えを知っています」という人がそれを利用しにかかる。オカルトに対抗意見があることはまれなのに、不思議の問いを不思議と認識できない人は、反対意見がないことと、それが真実であることとを等しいものだと認識してしまう。

「癌の構図は実は単純」であったことに気がついた西洋医学の医師が、「有用菌のエキス」で作ったドリンクを紹介していた。「癌の構図」というテーマは、科学で取り扱うにはまだまだ大きすぎて、大きすぎる問題が、果たして単純なものなのか、それともその大きさなりに複雑であるべきなのか、昔ながらのオカルトは、「大きな不思議は基本的に恐ろしく複雑である」という立場を取るから、「実は単純」という解答は、科学としても、オカルトとしても、ちょっと異なっているように思えた。

「事実」と「虚偽」との間には「不思議」があって、不思議を扱うためには、不思議とのつきあいかたを学ばないといけない。理科の授業の一番最初にでも、まずはオカルト雑誌の読みかたあたりを講義してほしい。