説得の技術について

踏み込んだ解答は難しい

資料を調べて、何かを書いて発信するときには、まじめに資料を調べるほどに、踏み込んだ意見を述べることが難しくなっていく。

何かを発信する際には、「こうだ」と断言してみせないと迫力がでないし、何よりも書いている本人がつまらないのだけれど、調べた上で踏み込むと、資料の範囲を簡単に超えてしまう。

文章を書く訓練ができている人ならば、資料を集めて、その範囲で迫力のある自説を展開することもできるのかもしれないけれど、素人はどうしても、「まず論ありき」になる。論をまとめて、それを補強してくれるような資料を探して、資料が見つからなかったり、資料に照らして踏み込みすぎている文章は、あとから削られることになる。

最後は結局、面白さと正確さとのトレードオフになる。資料を引いた「○○らはこう述べている」という言葉一つとっても、異なった文脈で引用すれば、踏み込みすぎになる。以前出版させていただいたコミュニケーションの本にしても、最初に「こうだ」と書いた文章と、資料を引いて本に仕立てた文章と、結局200回以上の書き直しが必要になって、中身はほとんど別物になった。

明快な解答が出せる問題は前提を間違えている

普段ネットに文章を書くときには、いちいち資料を引くわけにはいかないから、「と思う」とか、「という気がする」という文末が多くなる。資料を引けば、検証の責任が発生するけれど、「私はこう思った」という文脈で逃げておけば、その必要を回避できるから。これをやるとどうしても、文章が寝ぼけて、解答が曖昧になる。「こうだ」という明快さは遠のくけれど、世の中のある事例に対して、「こうだ」という明快な解答が出せるケースは、そもそも少ない。

ある問題に対して明快な答えが導けるのなら、たぶん問いの立てかたを間違えているし、解答の正しさが疑いなく検証できることは、その問いが前提とする何かが正しいことを意味するとは限らない。

たいていの人はたぶん、曖昧な解答よりも、明快な解答を好む。

二酸化炭素が嫌いな人は、健康にいいキノコを買ったり、磁気ネックレスを愛用したり、水に毎朝挨拶をしたりする。こういうのはどれも、その人が「明快な解答が出せる問題」を好んだ結果なのだと思う。問題に対する解答が「これ」と断定されて、ならばその問題が取り扱う前提が実世界に対して本当に正しいのかどうか、検証作業の退屈さが、疑問を遠ざける。

間違った問いに対する明快な答えは、正しい問いに対する意味を持たない。ネズミの実験で成功した薬が、人体だと有害な作用を引き起こしたりすることは珍しくないし、実際に試してみるまで、それが有効なのかどうかは分からない。理想化した、実世界に対してあえて「間違った」状況を前提にした問いに対して、どれだけ明快な答えが得られたところで、それが実地の問題に対する答えになっているのかどうかは、実地で検討するまで分からない。

「この靴はすばらしい作りですから、あなたは足の指を切り落とすべきです」なんて、足に合わない靴を靴屋さんから勧められたら、お客さんは逃げ出す。「この解答は明快だから」と、間違った前提に同調を強いられて、何となくそれを受け入れてしまう機会は、案外多い。

努力には見返りが必要

「明快な回答が得られる前提」を発明して、他者の同調に成功したら、今度はそれを定着させる必要が生まれる。定着にはたぶん、ロールプレイングゲームをデザインするときと同じような考えかたが必要になる。

実社会では、普通の人はただ生活する。時々偶発的にトラブルが起きたり、チャンスが巡ってきたりして、それを解決したあとは、またいつもの生活に戻る。

明快な解答に同調した人は、問題解決のために日々行動することになる。定着を目指す際には、「大きな目標」をどれだけ磨き上げても効果は薄くて、そこに到達するための道筋に、解決可能な小さな問題を、いくつも人為的に作り込んでおく必要がある。

壮大なテーマのゲームであっても、たとえばゲーム開始後12時間、ひたすら「お使い」の日々を堪え忍ばなくてはいけないのなら、ユーザーは途中で飽きてしまう。ゲームにはだから、そのときの力量に見合った小さな問題と、それを解決した際の賞賛とが作り込まれていて、ユーザーを飽きさせないよう、様々に工夫されている。

カルト団体から抜け出した人は、もっと経済的に豊かであるはずの日常生活に戻っても、時々元の団体に戻ってしまうのだという。理由の一部はたぶん、「問題が向こう側からやってくる」ことに慣れてしまうと、「解決すべき問題がやってこない生活」に、耐えられなくなってしまうからなのだと思う。

壮大な目標を見つめていると、手に負える大きさの問題が、定期的にやってくる。それを解決すると一定の賞賛がもらえて、しばらくするとまた別の問題がやってくる。大きな目標への進捗は逐一報告されて、自分が今どのあたりにいるのか、まわりはどうなのか、努力の成果がフィードバックされる。成功しているカルトはたぶん、どこもこうした仕組みを持っている。

知識はあったほうがいい

相手を大衆運動に巻き込むような誘導を行うときの基本は「聞くこと」なのだという。思想を吹き込むのはずっと後の段階で、最初はもう、自分の側からは一切口を挟むことなく、相手の思いを聞き続けるのが大切なのだと。大衆運動の「オルグ」と「カウンセリング」とは、だから外から見るとほとんど区別ができないもので、実際に個人を誘導するときには、そうでなくてはいけないのだという。

オルグにしてもカウンセリングにしても、最初はただ、相手の意見を傾聴する。傾聴して、相手の抱える問題がはっきりしたところで、カウンセリングはここから、相手の内部に興味の対象を移して、その人自身による問題の解決を目指す。オルグは逆に、ここから「外」に舵を切る。その問題はその人の内部ではなく、社会の側に問題があるのだと、自己を強力に肯定してみせる。あなたは正しい。「だから」一緒に、間違っている社会を変えましょう、とつなげる。

問題意識を外に向けて、明確な回答が導ける前提を世界に投影して、定着に必要なサービスを提供することで、同調する人は増えていく。

「説得的コミュニケーション」に分類されるこうしたやりかたを知っておくと、じゃあ日常生活で何か大きな力が得られるかと言えば、全くそんなことはないのだと思う。説得的なコミュニケーションを行う、意図に基づいて、相手の見解を書き換える必要が発生した時点で、すでにそのコミュニケーションは失敗しているとも言える。決定的な見解の相違を回避できるのならば、妥協することで交渉は成立する。妥協の結果は明快には遠いけれど、実用的にはそれで十分役に立つから、説得の必要は、普通に日常生活を送る分には生まれない。

洗脳やマインドコントロール、大衆扇動の技法というものは、個人的には大好物な話題なのだけれど、普段は全く使わない。コミュニケーションの本を書く上で、だから結局、こういう技術についてはほとんど言及しなかった。

そうした知識を使う機会がないからといって、じゃあそれを知る必要は一切ないのかといえば、それはまた違う。「安全運転」は、免許をとりたての初心者にだってできるだろうけれど、危険な運転を知らない人には安全な運転はできないし、危険を知らない人の「危険でない」運転と、危険を知った人の「安全な運転というものは、質的には全く異なってくる。

免許を取ったばかりのドライバーは、ただ道をまっすぐ走るだけで肩が凝る。肩の力を抜いて日常のおしゃべりを楽しむためにこそ、説得の技術を学ぶ意味があるのだと思う。