出会いの効用

何かを探すのと、出会うのと、そこに到達する手段が異なると、自身が受ける影響もまた異なってくる。

偶然の出会いを期待するのに比べれば、探すやりかたは圧倒的に効率がいいけれど、ランダムな何かを摂取することは、効率以上に重要であることも多い。

本屋さんの平積みは面白い

インターネットでは、自分に興味のある何かを検索して、ほしい情報に到達する機会が多い。ネットを通じて何かを探索していると、好ましいもの、自分の文脈から見て違和感のないものはいくらでも手に入るのだけれど、これを繰り返していると、初めて読むのに「読む」というよりも「思い出す」ような印象を持つ文章ばかりが目に入るようになってしまう。

はてなブックマークTumblr は、自分の興味によらない、ランダムな読み物に行き当たる機会を提供してくれるけれど、文章は短くて、誰かの嗜好に合わせた情報が選りすぐられて提示されるから、やはりこう、効率がよすぎる嫌いが残る。

今住んでいる場所にはそもそも本屋さんがないのだけれど、昔はいつも、仕事の帰りに本屋さんに立ち寄っては、ベストセラーの平積みをちょっと眺めたものだった。

本屋さんと自分とでは、本に対する好みは異なって、ベストセラーを書く作家の人と、本屋さんの感覚ともまた異なっていたから、平積みされた表紙には、自分がすでに知っている何かとは遠い文章が並んで、新鮮だった。

文字数からしたら、たとえば Tumblr の1日分と、本屋さんの平積みと、比べるまでもなくネットのほうが多いのに、自身がそこから受ける刺激の総量は、本屋さんの平積みは、ネットに互していたのではないかと思う。

穏やかな押しつけがましさ

インターネットは効率がいい。自分が行きたいところ、見たいものだけを見ることができるし、閲覧の選択肢もまた無数にあって、欲しいものだけが手に入る。なんでもできるが故に、ネットでは選択しないとはじまらないから、結果として、探索から自由になれない。ネットでは、異質な何かと出会うことが案外難しい。

Amazon は便利だけれど、リアル本屋さんにあってAmazon に欠けている体験というものが「出会い」なのだと思う。Amazon の在庫は事実上無限、絶版になった本ですら購入可能であることが多くて、検索できる本ならばなんでも購入できるのだけれど、Amazon には平積みの棚がない。ユーザーの嗜好に合わせた本のおすすめサービスはとても便利なのだけれど、店主の顔というか、平積みを通じた考えかたみたいなものを押しつけられて、それに影響されて自分が変わる、そうした体験がどうしても少ない。

「穏やかな押しつけがましさ」に接するのが大切なのだと思う。

平積み棚に積まれた表紙も表現であって、自分とはなんの縁もゆかりもない、好みや生活習慣が全然違う誰かの表現が、否応なしに目に入ってくる体験は、自分で選んだ文章をどれだけたくさん摂取しても、代替できない。

自分の中になかった感覚を、表現の形で押しつけられると、何かが引っかかって、たまに何かが変わる。こうした感覚は、むしろ普通の本屋さんで得られることが多くて、ヴィレッジヴァンガードみたいに、「アート」を前面に押し出した本屋さんだと、引っかかってくる感覚がかえって得られない。

それはヴィレッジヴァンガードが、店員さんの自由な感覚を尊重しながら、結果としてどこに入っても「ヴィレッジヴァンガードの文脈」で組み立てられた空気になってしまっているからなのかもしれないし、あるいはそれを「アートだ」と認識してしまうと、構えてしまって、そこから変化するきっかけが失われてしまうからなのかもしれない。

ランダムさを摂取すること

落としてしまった鍵を探すときには、明かりの下をどれだけ詳しく探したところで、鍵を落とした場所がそこでないのなら、鍵は決して見つからない。

ネットは広すぎて、自分が探索できる場所なんてごくごく一部でしかなくて、じゃあ他にどんな場所があって、どんな興味がそこにあるのか、それを探そうにも、そこは自分にとっては真っ暗で、どこに進めばいいのか分からない。

興味の有無にかかわらず、別の価値軸でランダムに何かを提示してくれるメディアを大事にすることで、新しい探索の機会を見つけたり、今まで見えなかった場所に光を当てたり、可能性はずいぶん広がる。

ネットが前提、出会いなんて面倒を経ることなく、ほしい情報に直接アクセスできる現状はたしかに便利なのだけれど、豊かなのとは少し違う。

情報には、探索要素と出会い要素とがあって、本屋さんや図書館、あるいは近所を散歩することなどを通じたランダムさの摂取を怠ると、どこかで興味の幅を狭めてしまうような気がする。