三輪車の達人

物事には暫定的な解決方法と、根本的な解決方法とがあって、暫定的なやりかたは、すぐに結果が出るけれど、それに熟達することが、ならば根本的な解決に熟達することにつながるのかどうか、暫定的なやりかたを学ぶ差異には、それをよく考えないといけない。

自転車に比べれば、三輪車に熟達することは簡単かもしれないけれど、三輪車の達人になったところで自転車に乗れるようにならないし、どこか遠くに出かけようと思ったならば、やはり自転車が使えるようにならないと意味がない。

点線書きの昔

大昔、解剖実習の骨スケッチが壊滅的に下手だった。鉛筆で線書きを試みて、どうしても線がまっすぐ引けなくて、手が震えて、なんだかおかしな形になってしまった。

上手に描けなかったとき、「望む線がうまく引けないのなら、まずは点線で線を引いて、あとからそれをなぞるようにしてみなさい」と習った。スケッチブックは大きくて、素人が一気に線を引こうとすると線が震えるのだけれど、点線を鉛筆で描くと、たしかに不思議とそれなりの線になる。「点線」が引けた時点で、あとはそれをなぞるように本書きすると、とりあえず見られるスケッチが完成する。

ニコニコ動画を見ると、プロのイラストレーターの人たちが、自分の制作風景を公開している。プロの人たちはもちろん、「スッ」と下書きの線を引いて、点線なんて使わない。

点線で大まかな形を出すやりかたは、素人でも、暫定的にそこそこの線が引けるようになるのだけれど、こんなやりかたにどれだけ熟達したところで、絵が上手な人がやるように、一本の線をすっと引けるようにはならない。これはそういう意味で、「悪い暫定手段」であって、点線でのスケッチをどれだけ繰り返したところで、その人は「そこそこ」から先には進めない。

骨スケッチの実習はせいぜい数ヶ月で、今現場で簡単な絵図を書いて説明するときには、それで全く困ってはいないのだけれど。

補助輪付き自転車のこと

自転車に乗れない子供は、補助輪つきの自転車に乗る。ところがあれもまた、補助輪に頼った走りかたに慣れすぎてしまうと、いざ補助輪なしの自転車に乗り換えても、上手に乗れない。

補助輪つきの自転車に子供を乗せる代わりに、「ペダルを外した自転車に乗る」というやりかたがあって、これがうまくいくのだという。ペダルをこげないから、子供は地面を足で蹴って、2輪車を乗り回すことになる。いつでも地面に足がつくから転ばないし、この乗り方になれることで、バランスの感覚が磨かれる。

ペダルを外すやりかたは、「暫定的な成果にすぐ手が届く」ことと、「それに習熟することでもっと先を目指せる」こととが両立していて、これは「いい暫定手段」であると言える。

結果が出せたら振り返る

救急外来には「聖路加国際病院なら発生しない問題」というものがある。病院は入院費用が「安いから」、老健の代わりにちょっと使わせてくれだとか、夏ばてで疲労がたまったから、3日ぐらい点滴して休ませてもらおうかなとか、病院の使いかたを、自分たちの側から見ると「間違っている」人が来て、こういう人とはたいていトラブルになる。

こういう人たちを説得して、医療資源を無駄にせず、「正しい」患者さんとして「教育」できる人が「いい医師」の一側面である、なんて言われるのだけれど、この問題はたとえば、聖路加国際病院みたいな、一泊するのに最低でも3万円、下手すると10万円近くかかるような施設には、そもそも発生しない。

ならばそうした患者さんを説得することに熟達した「いい医師」の技量というものは、たとえば聖路加国際病院みたいな「いい病院」で働く際に何かの役に立つのかといえば、恐らくはほとんど貢献しない。こういう「いい医師」は、だから三輪車の達人であって、いざいろんな施設で腕を磨いた自転車ツーリングの達人と互していこうと思ったときに、三輪車はたしかに目立つけれど、ツーリングにはついて行けなくなってしまう。

自分が今磨いている、熟達している技能というものは、そもそもが暫定的なものなのか、それとも根本的なものなのか。それに熟達することは、果たしてもっと先に進むときに意味があるのか。ちょっと入門して、「結果を出せている」人は、その段階でそれを考えないと、将来袋小路に迷い込むかもしれない。